往年のクライマー(元登攀倶楽部の会員)によるブログです。


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山と当時のひととの出会い (1)

e0304295_146460.jpg仲村利彦岳歴(プロフィール」)中学1年生の頃から山を始める。中3の夏休み、単独で燕槍穂縦走。翌年3月(中3の春休み)西穂独標到達。高2の6月前穂屏風岩中央カンテ単独登攀(最年少記録)
ただ、中学3年生のときの南松ルンゼは無知無謀きわまりない少年の冒険ごっこであった。ボーイスカウトがしめるような布製のベルトをゼルブストにみたててカラビナとトラック用のロープをからだにセットして登ったのである。ハンマーは日曜大工用のトンカチ、ハーケンだけは投げなしの小遣いで買ったもので新品であった。しかし落ちたら死ぬことくらいは理解していた。布製のベルトはバックルのかみ合わせがあまく、日常でもときどき外れていたからである。登るに従い壁は傾斜を増す。恐ろしい限りであった。どうして登りきったのかは極度の緊張で覚えていない。登り終え、室生寺バス停への林道を歩いている途中、それまで無言だった相棒(パートナー)の板原兼則君(後、大阪凍稜会に入会 現カヌーの指導員)が私に言った。「俺の顔をつねってくれ。俺まだ生きてるか?」私は顔をつねらず歩きながら応えた。「生きてるわ」。この山行が私のクライマーとしての生き様に火を付けた。「もっと、チャンとして登りたい!」。 2年半後の秋、確かな登攀技術をつけて再度、板原兼則君と南松ルンゼに再挑戦。それでも核心部はRCCⅡグレードで5級はあったと記憶している。
※私の山行写真は重なる引っ越しの末、すべて紛失してしまいました。アルバムに整理せず、木箱にずさんに保管していたためです。己の整理能力の無さに悔いるばかりです。手に汗握る山の写真や希少なルート図は当時屈指の国内ビッグウォールクライマー「大柳典生氏」のカテゴリhttp://touhanclub.exblog.jp/i3/でお楽しみください。


山岳歴 (仲村利彦/日本山岳会会員)
197105無雪期奈良曽爾村南松ルンぜ初登
197107無雪期燕岳~槍ヶ岳~北穂高岳~奥穂高岳~前穂高岳縦走(単独) <中学3年>
197203積雪期西穂高岳独標 <中学3年>
197208無雪期赤沢山大スラブ~奥壁 <高校1年>
197307無雪期剣岳八ツ峰六峰Dフェース久留米大ルート~チンネ左方ルンゼ~中央チムニーAバンドBクラック <高校1年>
197308無雪期北岳バットレス第四尾根 <高校1年>
197310無雪期前穂高岳屏風岩東壁青白ハング鵬翔ルート <高校1年>
197310無雪期奈良曽爾村南松ルンぜ二登
197311無雪期明星山P6南壁左岩稜 <高校1年>
197406無雪期前穂高岳屏風岩中央カンテ岩溝ルート(単独) <高校2年>
197408無雪期前穂高岳屏風岩中央壁ダイレクトルート~北穂高滝谷第一尾根直上ルート <高校2年>
197411無雪期前穂高岳屏風岩第一ルンゼ <高校2年>
197411無雪期明星山P6南壁吉田ルート <高校2年>
197501冬季八ヶ岳大同心正面壁雲稜ルート <高校2年>
197503積雪期赤沢山大スラブ~奥壁~槍ヶ岳(冬季初継続) <高校2年>
197507無雪期錫杖岳烏帽子岩前衛フェース第一ルンゼ <高校3年>
197508無雪期黒部上ノ黒ビンガ京都ルート(初登) <高校3年>
197508無雪期北岳バットレス第四尾根~中央稜 <高校3年>
197508無雪期北岳バットレス第四尾根下部フランケ~Dガリー奥壁 <高校3年>
197510無雪期前穂高岳屏風岩東稜 <高校3年>
197601冬季前穂高岳屏風岩中央壁ダイレクト下部オリジナルルート <高校3年>
197804残雪期不帰東面二峰尾根~五竜東面GⅣGⅤ中間リッジ~GⅤ
197906無雪期唐沢岳幕岩正面壁静岡ルート
197908無雪期前穂高岳屏風岩右岩壁ルンゼ状スラブJECCルート~赤沢山前衛壁ルンゼ
198010無雪期黒部奥鐘山西壁中央ルンゼルート
198102冬季前穂岳高屏風岩第一ルンゼ
198106無雪期黒部丸山東壁中央壁サウンドトラックスルート(二登)
198109無雪期黒部丸山東壁一ルンゼ右俣左俣中央V字状岩壁直上ルート「イルージョン’81」(初登)
198110無雪期唐沢岳幕岩下部S字ルート~大チムニールート(初登)
198202冬季甲斐駒ヶ岳黄蓮谷右岸支流(初登)
198208無雪期前穂高岳屏風岩東壁雲稜ルート(一部フリー化)
198211無雪期明星山P6南壁左フェースルート
198302冬季八ヶ岳大同心大滝
198305無雪期大台ヶ原東ノ川中ノ滝


〔就職採用試験・面接での苦い思い出〕
クライマーなら誰もが経験あるシーンだと思う。私の場合、初体験は就職採用試験の面接であった。履歴書の趣味欄に「登山」と書いた。どこの企業にも「登山」を趣味とする幹部はいる。富士山は=いいえ。立山は=いいえ。乗鞍岳はい=いいえ。 滝谷や屏風、奥鐘山と言っても話しは盛り上がるまい。ふてくされた己が悪いのだ。一応、登頂経験のある槍や穂高などの名前も言い出せなかった! 聞いてくれればよかったのに! でも二十歳代、既存の山の頂上など記録以外ではどうでもよかった。それが原因か否かは定かではないが不採用が続く。

〔星野隆男さんの遭難〕
70年代初めだったと思う。冬、私は師匠の浜野進氏とともに屏風岩雲稜ルートを目指して上高地から横尾に入った。横尾の避難小屋でみんなが眠っていた。ぼちぼち起きなあかんな~ぁ!? と思っていた夢うつつの闇の中 、突然『滝谷に行くパーティはいませんか~あ?』 と言う声で起こされた。何か尋常でないことが起こったとは推測はできた。後程よくよく詳細を聞くとあの「世界初の三大北壁冬期登攀を成し遂げた」=『星野隆男』氏 が北穂で新人訓練の際、安全エリアのロープを張っているときに雪庇を踏み外して滑落とのこと。星野隆男さん このとき永眠。(当時私が目指した雲稜ルートはT4テラスで敗退。冬季登攀の難しさを知りました。)

※ 山岳同志会の方へ:真実でない場合はtoshi5512jp△yahoo.co.jp 迄ご連絡ください。元登攀倶楽部会員 仲村利彦 が責任をもって書き換え、或いは削除致します。△⇒@に入れ替えてください。(迷惑メール防止)

〔長谷川恒男さんとの出会い〕
1974年の秋、明星山P6南壁ダイレクトルートを目指して明星山へ入った。その日は朝から雨で壁はぬれていた。やや小ぶりになったので取り付くがぬれた石灰岩は石けんのように滑る。やむを得ず、1P目は取り付き点右のガレ場を登りそこから緩傾斜帯を左へトラバって元ルートに合流と計画変更。左へのトラバースを試みるが、これもまたヤバイ。2パーティ4名の山行であったが、次々挑戦しては戻ってくる。トラバースなので、ある程度距離を伸ばすと行くにいけない、戻るにもどれない状況におちいる。それを見越して早めに戻ってくるのだ。私の番がきた。早々に戻るつもりでとりあえずトラバースを始める。私の靴の底が柔らかかったせいだろう、ルートの合流点に達する。それを見てセカンドの小原氏(明治大学山岳部OBで当時登攀倶楽部員)も渋々ついてきた。合流点からツルベで登る。ツルベとは技量が同等のパーティの場合、トップ・セカンドを決めず、セカンドがビレイポイントで確保者を追い越しトップに立つ登り方。そうすればビレイの交代回数も半分ですむことになる。当時はザイルの長さが40mだったので一人が最大80m登ることとなる。私は最初のハングをセカンドで乗越していた。ふと下を見ると見知らぬクライマーが待っている。急いでハングを乗越し再び下を見る。やはり見知らぬ彼はすぐ下で待っているのである。その後、我々が吉田ルートに迷い込みダイレクトルートから外れたためか彼の姿は消えた。吉田ルートに入ったことを知ったとき、壁の傾斜は垂直に近く、元ルートに戻ることなど不可能だった。仕方なくそのまま進む。登り着いた緩傾斜帯のテラスでビバーク。翌日、懸垂で下の河原に降りる。すると我々と同行した一方のパーティで師匠の浜野氏が見知らぬ彼と非常に親しく打ち解け合っている。ただ両名とも非常に臭い。ニンニクの匂いだ。帰路、見知らぬ彼の赤い軽自動車で小滝駅まで送ってもらう。車内の狭さがニンニクの匂いを助長する。季節は11月。乗せてもらっている我が身では「窓を開けてほしい」との言葉も『遠慮』に押し消されてしまう。ただ、車中、運転をしながら見知らぬ彼が当時まだ高校生である私に驚き「将来、楽しみだね」と聞き慣れない関東弁で言ってくれたことを覚えている。小滝駅で見知らぬ彼の車が去った後、師匠の第一声「今の長谷川さん、長谷川恒男さんや」を聞き、驚きと困惑を隠しきれなかった。その年の3月、長谷川恒男氏は谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブを単独初登し、クライマー仲間では話題の人であった。(もちろんエベレストのこと、加藤保男氏との関係も知っていたが我々クライマーの間では滝沢第2スラブの単独初登が当時は何より輝いていた) 師匠の話では長谷川恒男氏はプロの山岳ガイドとしてお客さんを明星山P6南壁ダイレクトルートに案内した。お客さんがハングを乗越せず降りてきたと言う。長谷川恒男氏が生ニンニクを持ってきており、コンロであぶり、食べながら語り明かしたとのこと。師匠も前穂屏風岩の中央カンテや大スラブルートを単独登攀していたが、話している相手が長谷川恒男氏であることを知り、単独登攀の話しは一切しなかったとのこと。長谷川恒男氏がウルタル2峰で雪崩に巻き込まれ遭難する17年前のことである

〔横尾での遭難?〕
単独で前穂屏風岩の中央カンテを登ったときの話である。どこで道に迷ったのか、横尾を目前にしてたどり着けない。こんなことが!? まさに目前である。横尾テント場のざわついた声や、女子大山岳部の透きとおるような歌声が聞こえる。しかし行き行く先、行き行く先、梓川がへだたり、横尾にたどり着けない。屏風を単独で登ったオレがなんで・・・ こんなところで。そんな言葉を心で繰り返しながら梓川を溺れそうになりなり渡渉して横尾小屋へ。当時涸沢から横尾への道は直前の2~300メートル手前に小さな埋もれた岩がありそこを起点に3方に分かれていた。昼間だとどこを行っても無意識に正道に修正できたが、夜ヘッドランプの光が切れかけの状態で河原に近い右の道をとると大変であった。同じような経験の有る方は是非コメントください。

〔小西政継氏との一瞬の出会い〕
1982年屏風の帰りである。私は信州大学の山岳部のベースキャンプに泊めてもらっていた。長野出身の関川君(登攀倶楽部会員/後、大峰の氷爆で遭難)の紹介によるものである。(感謝)上高地の河童橋近くの木のスタンドに見た顔があった。よくよく考えると本で見た顔。小西政継さんだ。「登攀倶楽部の仲村です。」と挨拶、しばらくとりとめもない話をした。話しの詳細は覚えていない。ただ、小西さんの靴が小さすぎたことだけは記憶に残っている。小西政継さん(1996年10月1日- マナスルに登頂後、消息を絶つ。)

〔明星山での恐ろしい思い〕
明星山P6南壁左フェースを登ったときである。もとももとこの壁は嫌いであった。吉田ルートの苦い思い。慣れていない石灰岩。磨かれた鋭角のエッジ、ザイルが触れると切れるに違いない。濡れると石鹸のように滑る岩肌。岩壁そのものの標高は低く、登攀中の景観もさほどよくない。今ひとつのりきれない気持ちのまま取り付く。2~3ピッチ目だったと思う。私は顕著なクラックに足をねじ込み、ひねり立ち上がろうとした。そのときである。「ゴォ~」と音とともにクラックが数センチひらいた。恐ろしい限りである。山で生死の境と思った瞬間は幾度かあった。単独で屏風を登っていたとき、アブミに体重をかけたとたん縦リスのハーケンが下にズレ、アゴで止まったことがあった。また、バイクの轟音をひびかせるような落石がヘルメットの一部を削って通過したこともある。しかし現実の危険度はともあれ、このときの恐怖感はこれらの比ではない。この岩が落ちれば数トンの崩壊どころか、壁の形相が変わる。そう思われるほどの大きな岩塊であった。

〔アブミで糞をした おはなし〕
冬の屏風岩中央壁ダイレクトルート登攀中である。登る前から便意はあった。ただ、いつも登る内に失せていた。今回もそうだと登り始めたが、そうではなかった。半ピッチほど登ったところで我慢は限界に達した。冬の衣服は何重にもなっている。ゼルプストもある。私は不安定なハーケンからボルトに移ったとたん我慢できず、アブミ 二つを同一のピンにセットし、排便の用意に入った。当時のゼルプストは腰のみのものが流行りつつあったが私は用心のため冬期は胸と腰セパレートにしていた。(当時は腰ゼルプストは落下したら反転するという説が山岳雑誌をにぎわしていた)腰のゼルプストを外し、『用』 を達す。快便であった。支点のボルトを見ていたので「もの」の落下は見ていないが機嫌良く墜ちて行ってくれたに違いない。下でビレイをしていたMさん「ごめんなさいネ」。ホゥっとして上を目指す。
※1980年代に入るとハーネスに名称を変えるが、この頃はまだゼルプストと呼ばれていた。

〔登攀倶楽部の愛称〕
登攀倶楽部京都では不思議に「愛称」で呼んでいた。べえちゃん・ゆうボウ・ゴンちゃん・トヨはん など。大柳氏の場合、当時流行っていた「小柳ルミ子」から姓の大・小はかまわず愛称は「ルミコ」であった。もちろん男性である。小柳ルミ子とは関係ない。乱暴な愛称である。ただ、山で極限状態に陥った際、「愛称」でお互いを呼ぶことによって緊張感がほぐれる。 山家の勘がそのように導いたのではなかったのか? 今だからそう思える。ちなみに私の場合、高校生時代から入会していたので通称「としぼう」であっが、前穂屏風岩によく通っていたので「びょうぶ」⇒「ばぶ」と変化し、小生意気な後輩「IO君」から「ばぶ坊」と呼ばれていた。

〔落下その1・人が落ちる瞬間〕
登攀倶楽部入会前である。前穂屏風岩の東壁、鵬翔ルートを登った。東壁には青白ハングという有名なハング帯がある。その基部には大テラスがある。テント二張りは張れる大きく安定したテラスだ。ここから青白ハングの登攀がはじまる。前傾した壁がつづき、登れば登るほど前傾はきつくなり、最後は庇状になっている。アブミによる人工登攀だ。鵬翔ルートの場合、青白ハングの初登ルートであることから最後の庇はそれほど大きく出っ張ってはいない。ただ、他のルートが比較的ボルトが多いのに比べ鵬翔ルートはハーケン連打である。
それも縦リスが多い。横リスのハーケンは引っ張れば抜けるものでも下に力がかかれば持ち堪えてくれる。縦リスのハーケンにはそれがない。説明するには難しいが、当時少し高価な縦リスハーケンにはアゴがついていた。ハーケンが抜けようとし下に傾いたとき一端、アゴを支点として止まる仕組みである。ただ、それ以上に力がかかった場合は、アゴを支点としてハーケンは抜ける。体重移動などでアゴで止まった瞬間、ゆっくりと元のアブミに戻れば難は逃れることはできる。事実その経験は私にもある。ただ、落下となるとアゴの効力は効かない。登攀に関していえば落下には2種類ある。「自然落下」と「静動落下」だ。同じ落下であってもこのふたつは大きく違う。自然落下とは引力にまかせて落ちること。静動落下とは単に引力に任せず上への力が幾分か働く落下である。セカンドが落ちた場合、ザイルを張った状態であると上からトップが確保しているので即止まらないまでも静動は働いている。トップが落ちた場合、最短ピンの距離までの2倍が自然落下の状態となる。話を元に戻す。そのとき、私はセカンドで青白ハングを登っていた。下を見ると10メートルほど下に後続クライマーのヘルメットが見えた。アブミをかけるハーケンは40センチ間隔で多すぎるくらいあった。冬季登られているので着ぶくれした、或いはハーケンを見つけ出せなかった登攀者が打ち足したのであろう。アブミの掛け替えに苦労はなかった。半ピッチ(20m)を越えたあたりか?下から「アッ」という声が聞こえた。後続のクライマーがスローもションで落ちてゆく。ピュン、ピュン、ピュン、ハーケンの抜ける音が壁に響く。次の瞬間、確保者が跳んだ。止まった。上から見ていたので距離感は定かではないが大テラスまでわずか1~2メートルのところに見えた。ハングなので途中までは空中の自然落下である。落下を止めたピン、確保者、セルフビレイ点が3次元上で一直線になっていた。人の身体には弾力性がある。これも効果的であった。ピュン、ピュンと抜けたハーケンもその都度、静動作用をかけてくれていたと思う。「大丈夫ですかぁ~!」叫んだ。「は~い。降りまぁ~っす」と叫び、懸垂下降で降りていった。ハーケンが数本抜けたことは間違いない。ただ、衝撃だったのは落下を止めた瞬間、確保者が大きく跳んだことだ。それ以来、私は可能な限りボディビレイする。かつ、セルフビレイは必ず短く、片手がとどく範囲にするよう徹した。
鵬翔山岳会アーカイブスブログ 穂高屏風岩東壁青白ハングルート初登攀
e0304295_344444.jpg上記ルート図は登攀倶楽部会報より抜粋

〔ナメクジ〕
上ノ黒ビンガでのことである。登攀用ハンモックで寝た。吊していた壁はほぼ垂直であったがハンモックに乗ると壁側の圧力が結構ある。ハングなら問題はないのだが・・・ 周りを見るとハンモックビバークに慣れた者はエアークッションを壁側に挟み快適に寝ている。壁の圧力が気になって寝つかれなかったが、疲れていたのだろう。遅れてではあるが寝ることはできた。日の出とともに起きる。すると壁側の手が異様にヌルヌルしたものに触れていることに気づく。見ると今まで見たことのない巨大ナメクジであった。長さだけで親指の2倍はあったろう。黒部は何についても規模がデカイと思った。巨大ナメクジは指で払って下の黒部川に落とした。

〔単独登攀〕
単独登攀の方法には大きく分けて2種類ある。ノーザイルで一気に登る方法。長谷川恒男氏が滝沢第2スラブを冬季単独初登したときはこの"一気"方法だったと思う。もうひとつはZ(ゼット)方式である。それは1ピッチごとに登って降りて登りなおす方法。文字の形と実際の図式的にはN(エヌ)方式といった方がわかりやすいと思う。ただここでは従来のZ方式と表現する。Z方式について少し詳しく説明する。ザイルの末端にザックを結びつける。クライマーが落下し荷重がかかったとき支点ピンを起点にしてザックは上に引っ張り上げられる。そのときザイルの末端がカラビナを通過しないようにするためだ。ザックにはセルフビレイをする。それがあまり効き過ぎると支点への荷重が大きすぎてランニングビレイ点が抜ける可能性がある。そのためザックのセルフビレイ点からクライマー側1m程度のところで束ね靴紐など、一定以上の荷重がかかるとたやすく切れそうな紐で結んでおく。ただこれは気休めだろう。クライマー側はザイルに6mmシュリンゲをプルージックで巻き付け一方をゼルプストに接続する。私の場合はプルージックを上下2カ所取った。ユマールなど登高器の方が使い安いのではとお考えの方もいるだろう。しかし、ユマールのギザギザ突起はザイルを切断する可能性があると言われていた。数mの自然落下の場合、その可能性は大いにある。当時のZ方式では初回の登攀はみんなプールージックを使用していた。誇張もあると思うが、かの木下誠氏がチンネ左岩稜単独でザイルいっぱい(つまり40×2の80m)転落し九死に一生を得た話がある。このときも聞くところによるとプールージックだったとのこと。とは言えプルージックにも予想外の危険がある。落下の恐怖のあまりプルージックとザイルの接続部を握ってしまったら? プルージックは効かず、ザイルを滑る。やがて6mmのシュリンゲはザイルとの摩擦に耐えきれず溶けて切断する。間違いない。岩登りのゲレンデでの実験の結果だ。また、ザックを結んでいる反対の末端をクライマーにつないだ方がより安全ではないか? これも実験の結果ダメ。プルージックとクライマーの間のザイルがUの字になり、引っかかってしまい動きがとれなくなる。せめて、もう一方の末端に結び目を入れ、プルージックが効かずかつ溶けなかった場合、結び目で止まるようにしては?これもダメ。結び目くらいと思うだろうが、これがブッシュやクラックに予想以上にたやすくつかまる。ザイルの末端はそのままにしておき出る方向から逆にザイルを自然に置いていく。これがベストだ。丁寧に出やすいようにザイルを巻き置いてはならない。下がハング帯であってもザイルを空中にぶら下げてはならない。風でザイルがどこかに引っかかれば「万事休す」である。とにかく、Z方式で途中ザイルが出なくなると死に直結する。40mザイルでは20mを越えた時点でアクシデントがあった場合。後戻りできない。説明が長くなった。次に急ぐ。ピッチの終点に到達すると安全なピンを支点にクライマーはザイルをセットし登ってきたルートを懸垂下降する。ランニングビレイのカラビナやシュリンゲを回収しながら。元のザック置いていたところまで戻ると今度はザックを担ぎ、同ピッチを登り直す。このとき登高器があれば便利だ。が、当時ユマールは高価であった。高校生には買えなかった。私はプルージックを結ぶ際、ザイルとの間にカラビナをかます方法で乗り切った。それで十分であったように思う。
※木下氏とは生前、登攀倶楽部の例会や山で幾度か会ったがチンネでの墜落に話が及んだことはない。従ってこの件の真相は分からない。

〔犬跡線〕
『犬跡線』という言葉がある。飼い主を走らせる。しばらくして、飼い主を走らせた地点から横幅数十メートルの間隔をおいて犬を走らせる。犬は飼い主に早く近づこうとするが、走る軌跡は合理的ではない。できるだけ飼い主を正面に見ながら近づこうとする。飼い主の軌跡を計算して直線的最短距離で合流できない。反比例のグラフにも似た曲線となる。この追跡曲線を『犬跡線』という。山人生もそうである。そのとき、その瞬間の目標を正面にもとめて不合理な犬跡線をたどる。人生も。 

〔最も難しいルート〕
登攀を何年か経験すると、本当に危険なルートかそうでないか、わかる。(技術的に難しくても雪崩の危険なく、いつでも退却できる場合は気楽である。)当時、難易度は第二次RCCのルート図がバイブルであった。6級を上限とするグレード形式である。6級ルートの冬季登攀。最高のステイタスとしてこれを目指す。ところがそれに載っていないルートがある。鹿島槍・五竜・不帰など積雪期にしか登ることができないルートだ。これらを含めて考えると当時総合的に、国内最難関ルートは「鹿島槍ヶ岳北壁中央ルンゼ」であったと思う。登攀倶楽部には完登した先輩もいる。建部氏&鈴木氏だ。しかし核心部でトップの建部氏が落ちている。私の知る限り同ルートを登り切ったクライマーはみんな地獄を経験している。鹿島北壁中央ルンゼ。私にとって国内ルートの最終目標であったが登ることはできなかった。慎重すぎるあまり時期を逃してしまったのか?・・・だから今、自分はここに居てこのブログを書けるのか? 
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by touhanclub | 2013-01-02 23:47 | 仲村利彦の部屋