往年のクライマー(元登攀倶楽部の会員)によるブログです。


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山と当時のひととの出会い (2)

〔滝谷第一尾根の苦い経験〕
我々は前日、前穂屏風岩の中央壁ダイレクトルートを登り、ウキウキ気分であった。今日は滝谷第一尾根を登る。第一尾根を選んだのは北穂山頂に一番近いルートを登りたかったためだ。当時滝谷第一尾根にはクラッシックなノーマルルートと直上ルートがあった。我々はより難しいであろう直上トルートを選んだ。ノーマルルートは初登ルートで良ルートと聞いている。直上の方はほとんど登られていない廃ルートだったのだ。ハーケンは浮き、最終ピッチのルンゼは浮き石だらけだ。パートナーの宮形恒光君はルンゼの浮き石で足をやられてしまった(その後の歩行には問題なかったがとりあえずトップを替わった)。北穂の売店の兄ちゃんも我々が登攀倶楽部と知り3時間程度で帰ってくると思っていたそうだが、6時間もかかってしまい何かあったのかと心配していたそうである。教訓だが先ずは初登のノーマルートを登るべきである。それがその壁の醍醐味である。奥鐘なら紫岳会ルートか?私は紫岳会ルートを登っていない。

〔悪運強い彼〕
山は運次第の要素は多分にある。Hくんを思い出す。所属山学会はK山岳会。登攀倶楽部ではなかったが、大学は同じで、彼はワンダーフォーゲル部に属していた。まず、彼は比良山で10年に一度あるかないかの雪崩にあって高島の病院へ入院。数年後、前穂屏風岩の第一ルンゼで横尾まで轟く壁の崩壊にあう。それでも、重傷ながら生還。その後一ルンゼはルートが変わったという。彼は会うたびに長年、体に埋まっていた接骨ボルトを見せる。「不幸中の幸い」とは言うが、結果的に「運」はよかったのか。

〔山の怖さ〕
岩登りを数年やっていると、本当に山が怖くなる。知り合いの死や事故を数々知ることとなる。ある日、私はいやいや山行準備をしている自分に気づいた。食料や燃料の買い出し。以前のようなウキウキワクワク感がない。デブリを通過するとき、あるはずのない硫黄の臭いが鼻を刺激する。恐怖が臭覚に信号を発している。
甲斐駒の七丈爆を登りに行ったが、ピーカンにも関わらず「温度が上がり過ぎている。」と判断し敗退した。正直、怖かったのだ。

〔落下その2・人が墜ちる音〕
六甲山の蓬莱峡での出来事である。ドンとの大きな音とわずかな地響きがあった。何があったのかと見渡すと大屏風の下降路の下の河原で人が横たわっていた。意識はなかったが出血もなかった。青年であった。知り合いらしき人もいなっかったので一人で来たと思う。しばらくして救急車が着た。誰かが呼んだのであろう。携帯のない時代である。青年のその後のことは知るすべもない。ただ、人が地面にたたきつけられる音の大きさには驚いた。岩登りの怖さが増した。

〔不動岩〕
岩登りの練習場を何故か、ゲレンデと言う。六甲周辺の岩場である。とは言え、危険度は本番(ホンチャン)と変わらない。百丈岩などは100メートルもある。前穂東面のDフェースとあまり変わらないと思う。関西では先の百丈岩を始め、仁川・芦屋ロックガーデン・不動岩・堡塁岩・蓬莱峡などがある。それぞれの岩場で多くのクライマーが命を落としている。「ゲレンデ」と呼ばれる言葉の軽さが災いの元か。墜ちたら死ぬ原理はどこでも同じである。落石の危険度も同じだ。事実、知人が散った場所は「ゲレンデ」と「ホンチャン」を比較すると大きな違いはない。話はかわるが当時、神戸のクライマーは主に堡塁岩、大阪のクライマーは不動岩を練習の場としていた。私自身も大阪の人間だったので不動岩に通った。ナメクジハング・菱形・太鼓ハングは懐かしい言葉である。 おもしろいブログを見つけた。世代的には私より数年後のクライマーと思うが気持ちは大いに通ずるものがある。
一度、訪れて頂きたい。
http://www.ne.jp/asahi/mtikusa/net/contents/climb2/memories/fudo82.htm

〔40m ノーピン〕
往年のクライマーなら一度や二度は経験あるだろう。ザイル一杯、つまり40mノーピンで行き詰まったこと。またはノーザイルで行き詰まったこと。ここで落ちれば確実に死ぬ場面である。ナメてかかったわけではないが、緩傾斜が気付くと垂直になっていた。順層のホールド・スタンスが急に逆層になった場合などである。「しまった」とは思うが、もう遅い。ザイルは緩やかなループを描きながら何ひとつの屈曲もなく確保者まで伸びていたりして・・・ 「たのむで」と下に叫びながら見えぬホールドに飛びつく。ニコニコホールドであった。今でも年に3回ほど夢にでてくる。そして起こされる。

〔下あごの前歯〕
この年になると歯医者は欠かせない。カブセが抜けたり、虫歯が見つかったりである。歯科医に行くたび言われる。「他の歯は年齢にしては若いのに下あごの前歯だけは摩耗しすぎている。」ハタと気付いた。冬の屏風で下向きのブッシュを束にして噛んで、両手をはなし腕力を回復したことがあった。不帰でも下向きのハイマツを噛んで同様なことをした覚えがある。最悪の状況下での私のクセなのである。口は第三の腕? ぼちぼち総入れ歯か。

〔カモシカその1・幕岩編〕
幕岩へのアプローチであった。視界の悪い森林帯を歩いていると、前方からかすかな音が聞こえた。落下音と言うより何かが崩れたような音である。しばらく歩くと「大町の宿」(とは言っても岩小屋だが)が近づき谷ではあるが視界が開けてきた。谷を囲む左右の尾根と正面に幕岩が見える。そのときである。我々が進むべき前方に茶色の物体がガレ場の中に見える。駆け寄って確認する。羊の1.5倍ほどのカモシカであった。つい今、左岸の急斜面から滑落したのであろう。ツヤと張りのあるあるきれいな体毛と温かい体温がそれを証明していた。不謹慎ではあるが正直、美味そうであった。新鮮なカモシカであった。それとも、私の腹が減っていただけ・・・?

〔カモシカその2・黒戸尾根〕
甲斐駒、黒戸尾根の八合目付近での出来事である。雪が深々と降っていた。視界は数メートルほどであった。無風に近かったと思う。急な傾斜を登りきった。すると、今まで見たことのない巨大きな生き物が目の前に立ちはだかる。色は月輪熊ほど黒い。体高は牛ほど。恐る恐る近づき確認すると巨大なカモシカであった。どう表現したら良いのか? 「黒いジャコウ牛」とでも言うべきか。威嚇するつもりはなかったが、驚きのあまり目と目が合ったまま数秒経った。その後、動じぬ「黒いジャコウ牛」に恐怖を覚えた。しかし、すぐ彼には敵意のないことが理解できた。そして次の瞬間、この山の「主」或いは「神」に対面しているような崇高な思いに至った。真空の時間の後、彼は何もなかったようにゆっくり体を反転させ私の視界から離れて行った。この間、実際は数秒であったかも知れない。ただ、私にとっては長い時間に感じられた。黒戸尾根八合目で見た「黒いジャコウ牛」、彼は甲斐駒の「神」ではなかったのか。

〔小屋番〕
高校時代のこと。南ア北岳バットレスの下山途中 ”御池小屋” で休憩した。白根御池にある山小屋である。池と言っても立派なものではない。ただ、何故ここに池があるのか? 地学的には貴重かも知れない。それでも、当時高校生の私にとってそれはどうでもよかった。衝動的ではあったが、小屋番に雇ってもらえないかと尋ねた。主人のおっちゃんはしばらく考えた後、8月末までならと了解してくれた。「っと言うことだから」とパートナーのK君を一人で下山させ、帰した。(なんと無責任で勝手なヤツだろう。反省!) で、小屋番生活に入る。朝は3:30AM起床。登山者のための昼食「おむすび」をにぎり、たくあんを付ける。登山者を見送った後は一眠りして、布団・毛布を乾す。昼は売店の番。夕方はテン場を廻ってキャンプ料の集金。キャンプ料の集金については ”ひともんちゃく” あった。公園内で何故使用料を要求するのか? 単にテントを張っているだけで何故? 私は水の使用、ゴミの処理やトイレのことなどを切々と解き納得して頂いた。この経験はその後、私の人生に大きく役立った気がする。
今や御池小屋は大きくなったようである。一度、URLを訪れて頂きたい。
http://outdoor.geocities.jp/shiraneoikekoya/

〔小屋番:玉子の運搬〕
当時、山小屋での朝食は「玉子かけご飯」であった。玉子は結構、保つものである。2週間に1回、下の村から玉子を運ぶ。玉子の箱はほとんどがクッションで見た目より軽い。背負った高さは頭より30センチ上にくるが重さは10Kgに満たない。それを背負って走って登る。「山小屋の兄ちゃんはすごいなぁ!」と声がする。気分は良い。が、「見掛け倒し」である。

〔ヒスイ〕
明星山と書いて、「みょうじざん」? これはどうやら間違いらしい。ルート図を作った元RCCⅡのメンバーで登攀倶楽部員の大下さんに聞くと「みょうじざん」は「みょうじょうざん」の誤植とのこと。それはともかく、この石灰岩の山は不思議な山である。ルートを登りながら、或いは下降しながら観察すると、小さな穴が所々で見つかる。覗いても中は真っ暗。声を発したら山彦が返ってくる場合もあれば、永遠の空間に飲み込まれることもある。明星山には巨大な鍾乳洞があり日本海まで達しているとの説があるらしい。かつてはヒスイの産地でもあったとのこと。明星山P6南壁左岩稜を登ったときである。終了点の間近で、半透明で緑色の岩塊を見つけた。握り拳より大きめの球形で重さは1.5Kgくらい。直感的に「めずらしいもの」と思い、ザックに入れる。完登後、いくつかの尾根を横断する下降路でビバークを強いられる。私は負担に耐えかねて躊躇せず、その岩塊を捨ててしまった。今「お宝鑑定」に出品すればかなり高価な代物ではなかったかと後悔している。

〔盆栽〕
海谷山塊に行った。壁の名前は忘れたが、その壁を対岸の岩小屋から眺めるとただものではない恐れを感じた。逆層で規模も傾斜もかなりのものであった。我々の装備も対応し切れていないが、何より心構えが出来ていない。壁の大きさは奥鐘に匹敵する。壁の形相は奥鐘のようなハング帯は無いが、壁全体が逆層のルンゼの集合体で、リスもクラックも少なそうである。パートナーのU君も同じように感じていたと思う。しかしお互い強気である。「こんな壁、登っても男が上がらん。」と意見が一致。急きょ、黒部の丸山に目標を変更し、海谷を下山する。下山途中、変電所係員の車に拾われる。同乗し会話をするが話がかみ合わない。我々が単に壁を登りに来たと言っても信じてくれないのだ。「盆栽取り」と誤解される。事実、壁に生えた盆栽は一株 数十万円単位で取引されるらしい。元クライマーのみなさん! 懸垂下降で「盆栽採集の副収入」は如何なものか? 合法か非合法かの確認は各自でお願いしたい。

〔釜トン〕
冬の横尾へのアプローチは沢渡までタクシーで行き、そこから徒歩である。「釜トンネル」=通称「釜トン」がある。今は整備されたそうであるが、当時は岩肌むき出しのトンネルで入口と出口はむしろで覆われていた。出入口付近は雪崩の巣で最も危険な箇所でもある。滝谷や屏風岩など難ルートを成功させながら釜トンの出入口で雪崩に遭い亡くなった例もある。トンネル内は真っ暗でヘッドランプを用意する。路面は青氷に覆われており「必ずひっくり返る」ただ、登山者はザックを担いでいるので後ろ向きにひっくり返る分にはお笑いですむ。お互い何回ひっくり返るか勝負する。上高地からの下山の途中、釜トンを出たところのデブリ、これは要注意であった。デブリは道をふさぎ、数十メートル下の谷底まで達している。そこをトラバースする。落ちれば絶命間違いない。穂高の登攀はここを乗り切って成功となる。 ※釜トンのデブリについては年により違いがあります。

〔ステイタス〕
登攀にはステイタスがある。不謹慎かも知れないがポーカーに例える。初登がストレートなら、冬季単独登攀はロイヤルストレートフラッシュだ。①初登 ②単独 ③冬季 ④冬季単独。②と③の優位性はルートの状況によって入れ替わる。ただ、8000m級を超える場合は「無酸素」の有無が飾り詞として付く。グランドジョラス北壁単独初登の「長谷川恒男氏」と「森田勝氏」の初登争いは凄まじかった。ローカルではなく全国ニュースで両者の動向を随時追跡し公表した。山が熱かった最後のときでる。ところで、チョモランマ(エブェレスト)の無酸素単独登頂は、かのラインフォルト・メスナ-氏だが、冬季無酸素単独登頂は誰か? ご存じの方、教えて頂きたい。長谷川氏も森田氏も逝ってしまった。

〔山は逃げない?〕
「山は逃げない」と言われる。されど「己が逃げる」のである。「体力が逃げる」・「技術が逃げる」・「ヤル気が逃げる」、 体力・技術・気持ちが最も充実しているときに自分が魅力とする壁に出会ったクライマーは幸せである。昨年の春、30年ぶりに元登攀倶楽部員の飲み会を催した。TさんとKくんが現役で活躍していることを知る。尊敬する。エネルギーの源を聞いてみたい。

〔ザイルがロープになった日〕
当時、山岳界は一風変わっていた。大学の山岳部はその活動内容から体育会系であるが、必ずしもそうではなかった。山岳文学や山岳写真など文化系的要素も多分にあった。ある意味、情緒があったと言える。ザイル・アイゼン・ピッケルなど、ドイツ語を主としたヨーロッパ言語に由来がある。これは山を単なるスポーツとしてではなく職人としてのプライドを込めての表現でもあったのであろう。ルートの難易度も6級を上限にしていた。当時の若いクライマーは6級ルートををめざし、日々練習に励んでいたと思う。ラインフォルト・メスナ-氏の「第7級極限の登攀」を読んで発憤したクライマーは当時、少なくないだろう。ところが、1980年代中頃だったと思う。大きな変化の波が押し寄せてきた。アメリカのヨセミテ文化が入ってきた。グレードは6段階ではなく5.10a~ など、細分化されることになる。ザイルはロープと言うあたりまえの和風英語になった。当時、曖昧であったフリーという言葉に厳密性が加わった。自然を損なわず美しく登れ!である。それはそれで一貫性があり納得できる。
この間、テレビでボルネオのキナバル「親指岩峰」の登攀を試みる有名クライマーUさんの映像を見た。見間違えていないとは思うが、Uさんは安易な別ルートから親指岩峰の頂点に達し、そこから懸垂下降⇒トップロープでルートに挑戦。結果、完全フリーでは登れなかったようではある・・・ 途中まで真剣に見ていたが最終的には茶番であった。
登り方はそれぞれであって良い。安全性を考えればボルトやハーケン連打もやむを得ず。岩登りの方法は時代とともに多岐に分かれる。それぞれ良いと思うが、岩登りの本質はあくまで下から上に登ることではないか。上から懸垂下降をして壁を観察し、方法を思案しながら登り直すのは如何なものか? 壁に対して失礼ではないか? ザイルの末端に靴を結び放り絡め中央カンテを初登した、かの松本龍雄氏に尋ねてみたい。

〔軽量化〕
どこまで軽量化は可能なのか? やはり食糧である。赤沢山大スラブ~奥壁~槍~北鎌尾根を計画の際、アルファ米に味付け板海苔と梅干し一つに限って山行計画を練った。2日目までは問題はなかったが、3日目以降異変が生じる。不運か、風吹によって槍の肩小屋で3日間の沈滞を余儀なくされる。栄養失調とビタミン不足だろう、爪の付け根の皮膚が開く。奥歯が浮き思うようにものが噛めない。沈滞4日目の朝、積雪で小さくなった小屋の出入口から外を見る。相変わらず真っ白であった。「今日もダメか」と思う。ただ、真っ白の奥が妙に明るい。雪洞状の出口を這って外に出てみる。するとどうだろう!外は真っ青な好天の空であった。小屋の出入口は窪みになっていた。そこだけが吹きだまりになり雪が舞っていたのだ。いつからかは分からない。当初、我々は北鎌尾根を降りる予定であったが、そんな余裕などない。急ぎ、飛驒側に降りる。新雪が下山を阻む。雪が柔らかすぎてシリセードもできない。ザックを背にして雪中を泳ぐと重さで進まない。ザックをシュリンゲで体につなぎ泳ぐ。これがベストであった。とりあえず犬かき、平泳ぎを駆使しひたすら下山する。無事下山。空腹ではあったが、とりあえず風呂でサッパリしてから空腹を癒やそうと銭湯に向かい体重を量る。平均体重マイナス7kgであった。食事後、再度銭湯に入り体重を量る。平均体重プラス5kgであった。3時間足らずの体重の変化12kg。ボクサーもビックリかも!?

〔奥鐘の潜水艦〕
奥鐘山西壁の取付点対岸には、適当な岩小屋がいくつかある。先着順に快適な岩小屋を選び占拠する。河原を掘れば温泉にも入ることができる。紫岳会ルートの取付点付近の河原を掘るのである。流れ着いた枯れ枝は無数にある。乾いた灌木も豊富だ。食糧さえあれば快適である。但し、夏場の山ダニを除けばだが。そんな黒部川源流の河原にも炊事に格好な場所はそう多くない。中腰になって食器を洗うことが出来る深場の淀みだ。そこに我々が以前から「潜水艦」と呼ぶ一尾の大岩魚が棲んでいる。体長は70センチほど。食器を洗う際の残飯を喰っているのだから成長も他の比ではない。釣り針にミミズを付けて目の前に落とすのだがまったく反応しない。百戦錬磨の黒部の主である。その手には掛からない。潜水艦の話をして私と同行していたフィッシャーマンのT君がフライフィッシングを試みる。食器を洗う場所から離れ、高台の岩の上からフライを落とす。少し反応したが即、Uの字に方向転換をする。T君は現場で巨大なアブを見て、2センチほどの通常では使わない大きなフライに替える。着水と同時に引きが伝わってきた。素早く糸を張ったまま高台から炊事場に移動をする。その間一瞬、糸が岩に擦れる。糸が風になびいた。糸が切れたのだ。しばらく「潜水艦」は岩穴に潜んだのであろう。姿を見せなかった。次の日の下山直前、再度例の炊事場を見た。「潜水艦」は悠々と泳いでいた。私は「これで良かった」とも覚えた。

〔Google Earth〕
私が現役の時代、3D写真などなかった。もちろん ”google earth” もだ。人は見た目で全体を想像する。屏風や滝谷、剱のチンネなどは強烈であった。特にチンネは私の経験上では独立峰のであった。ところが、である、”google earth” を見ると「チンネ」の名称記載はない。必死に探した。あの巨大な岩峰が記されていない。航空写真でも探すことが出来ない。写真の方向を ”三の窓” 方向からの展望にスライドさせる。出てきた。紛れもなく私が知る「チンネ」の全貌だ。中央バンド、左岩稜が見える。ここで気付く。チンネは独立峰ではなく八ツ峰の ”三の窓” 側フェース>であったことを。そう言えばチンネを登った後、大きな下降をすることなく主稜線にでた。チンネが独立峰なら下降があったはず。ついでに任せて穂高の屏風岩を ”google earth” で見る。覚悟はしていたが中央壁も涸沢へのルートから見た巨大な墓石を下から見上げるような威圧感はない。青白ハングもかすかなもの。そこに「緑」・「小倉」・「鵬翔」・「ディレテシマ」など多くのルートがひしめくとは考えられないスペースだ。T4尾根取付からから見たあの巨大な大スラブや一ルンゼ、涸沢へのルートから見た中央カンテ、右岩壁は地球的規模から見れば石ころに刻まれた小さなシワだろう。現役時代 ”google earth” が存在しなかった。少なくとも当時私はもう少し大きなものに挑戦しているつもりであったから。
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 by google Earth ※Google Earthの画像を転用しています。問題がありましたらご連絡下さい。即、削除致します。

〔大山北壁〕
大阪という土地柄、冬の大山にはよく行った。が、縦走できたのは1回きりだ。或日など、一般ルートでありながら、腰までの小雪崩に巻きこまれた。恐ろしい山である。元谷小屋で分かれ、再会できなかったパーティの話はよく聞いた。されど1500mそこそこの山。大山北壁(大屏風・小屏風)を本チャンと位置づけるか、冬壁のゲレンデと位置づけるかは本人の考え方次第である。昔、同じ山の店で働いていたKさん(私はアルバイトであったがKさんは正社員であった)は嬉しそうに私に言った「今度、大山北壁に行くんや!!」その言葉を聞いたとき何か解らぬ不安を感じたが、言葉には表せなかった。数日後アルバイトとして山の店に出勤する。妙に店が慌ただしい。Kさんが帰ってこないのだ。その春、ツエルトとともにKさんの遺体が発見された。ツエルトの中で雪崩に遭ったのか?大山は恐ろしい山である。

〔七面岩南壁と藤内壁〕
岩登りを始めてすぐであったと思う。当時、師匠の浜野さんと何処に行こうかと相談した。鈴鹿の藤内か大峰の七面岩、どっちにしよう? 軽い気持ちで七面に行くこととなる。しかし実際に行くと車の無い我々にとって林道を含め、徒歩で取付点まで1日半かかった。進むごとに七面岩南壁が近づく。霧を基部に従えた七面岩南壁は圧巻であった。ほぼ垂直で400m以上はあろう。10ピッチ以上は間違いない。藤内壁と比べるべき壁では無いことがこの時点でお互い確信した。完登には7時間はかかる。装備もゲレンデ用で不十分であった。何より心構えが不十分であった。浜野氏とは相談はしなかったが暗黙の了解であったろう。二人で壁に向かってゴメンと一言、合掌して退却した。
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by touhanclub | 2013-01-02 22:00 | 仲村利彦の部屋