往年のクライマー(元登攀倶楽部の会員)によるブログです。


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あの頃、大岩壁は確かにあった。
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山と当時のひととの出会い (1)
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<   2013年 01月 ( 5 )   > この月の画像一覧

山と当時のひととの出会い (4)

〔錫杖のパンツ〕
高校生の頃だったと思う。錫杖岩一ルンゼに行った。パートナーは当時、大阪の明星高校ワンゲル部員のA君。取り付く。ワンピッチではあったがA1・Ⅴ級のピッチがある。確保テラスは結構大きい。「いくで」と言って攀じる。難所を過ぎた頃、尻廻に圧迫感がないことに気付く。パンツのゴムが切れたのだ。
くっそ! A君を呼ぶ前にパンツを脱ぐ。登攀再開。難なく一ルンゼは完登。下山する。登山道から車道に降りた。すると若い女性が湧き水をポリタンに注いでいる。「こんにちは」山ではあたりまえの挨拶をする。「ところでなにやっとんですか?」彼女曰く「すぐそこで山荘を営んでいて湧き水をくんでいるところ」そばには車。「だったら今日泊めてもらえますか?」 気持ちよく車で山荘へ。風呂から錫杖岩が正面に見える絶好の宿。脱サラしてここにやって来たとのこと。会話のつづきかAくん、「ところでパンツありますか? こいつひょんなことからパンツ履いてないんですよ!」余計なことを!パンツなんて慣れである。なければそれでいい。10分ほどしてその若女将、「よければこれを」と言って持ってきたのが女性もんのパンティ。A君の笑いが止まらん。履いてみる。当時、スリムな我が輩の骨盤にも足らない丈。
それはそうとあの親切な脱サラ山荘。今もあるのだろうか?

〔風下に向かって45度を狙え!!〕
男の山屋さんなら経験があると思います。冬の稜線での小便。風下に向かって放水したつもりが、自分の身体が壁になり、風が舞って顔を含む正面直撃! 直ぐ凍るので問題はないのですが不愉快でもあります。いろいろ試した結果、風下に向かって斜め45度。これがベター。 途中で風向きが変わればゴメン・・・

〔本当にあった怖い話〕
前穂 屏風岩の遭難で思い出しました。
1979年6月、唐沢岳幕岩という壁を登りに行きました。ルートは正面壁静岡ルート。核心部は上部にある4~5メートルほどの庇上のきれいなハングです。
山用語でアブミという二つの四段縄梯子に乗り移り越します。アブミに乗り移ると前に乗っていた後方のアブミを前方のピン(ハーケンやボルトなど)に付け替えてまた乗り移ります。当然のことですがハング下のピンにアブミをかけて乗り移るとベクトルは真下、つまり抜ける方向にかかります。
やっとの思いでハングを越えました。難しいのはここからです。完全にぶら下がった状態から、からだ全体が90度以下の壁に移動するのではありません。胸腹は壁に接していますが腰と足は空中にある状態で庇下のアブミを回収します。極めて不安定な状態です。胸を壁に押し当てアブミにかけた足を外に突っ張るという微妙なバランスで庇下最後のアブミを回収しました。見えません手探りです。
見えないまでもピンからアブミを外して回収したつもりでした。が、なんと何の抵抗もなく回収したアブミは仲良くハーケン(ピン)が一緒でした。ギョエッ!! なんじゃこりゃア。
※ハーケンはリスとよばれる岩の割れ目に打ち込むピン。ボルトはリスがない場合に岩に穴を空けて埋め込むピン。
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by touhanclub | 2013-01-04 03:13 | 仲村利彦の部屋

あの頃、大岩壁は確かにあった。

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滝谷や前穂東面、剣のチンネや八ツ峰など、いわゆるクラッシックルートが登り尽くされた1960年代後半から1970年代初頭にかけて、日本のクライマーは残されたビッグウォールを目指すこととなる。大岩壁時代の幕開けである。そこには今日の意味するフリーという言葉はなかった。クライマーはボルト・ハーケン・アブミ・ユマールを駆使し、ひたすら登りきることを目標とした。もちろん、木の根っこもホールドにした。ボルトの頭もスタンスにした。このブログは大岩壁を攀じ登った往年のクライマーと当時登攀倶楽部、及び山行を共にした、大阪凍稜会・骨と皮同人・大阪わらじの会・あなほり同人・関西岩峰会・京都岳人クラブ・龍谷大学山岳部・同志社大学山岳部・佛教大学山岳部OBに捧ぐものである。
※当時、"毛虫探し"という言葉があった。国土地理院の地図に岩場が『毛虫』に似た記号であったためである。『毛虫』マークでは規模、状態は分からない。パイオニア達は『毛虫』を見つけてはそこへ行き、登るに値する壁か否かの判断から計画を練った。
・・・奥鐘山・前穂屏風岩・明星山・幕岩・甲斐駒・鹿島槍・不帰・丸山・海谷山塊・・・
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by touhanclub | 2013-01-03 14:11 | はじめに

山と当時のひととの出会い (1)

e0304295_146460.jpg仲村利彦岳歴(プロフィール」)中学1年生の頃から山を始める。中3の夏休み、単独で燕槍穂縦走。翌年3月(中3の春休み)西穂独標到達。高2の6月前穂屏風岩中央カンテ単独登攀(最年少記録)
ただ、中学3年生のときの南松ルンゼは無知無謀きわまりない少年の冒険ごっこであった。ボーイスカウトがしめるような布製のベルトをゼルブストにみたててカラビナとトラック用のロープをからだにセットして登ったのである。ハンマーは日曜大工用のトンカチ、ハーケンだけは投げなしの小遣いで買ったもので新品であった。しかし落ちたら死ぬことくらいは理解していた。布製のベルトはバックルのかみ合わせがあまく、日常でもときどき外れていたからである。登るに従い壁は傾斜を増す。恐ろしい限りであった。どうして登りきったのかは極度の緊張で覚えていない。登り終え、室生寺バス停への林道を歩いている途中、それまで無言だった相棒(パートナー)の板原兼則君(後、大阪凍稜会に入会 現カヌーの指導員)が私に言った。「俺の顔をつねってくれ。俺まだ生きてるか?」私は顔をつねらず歩きながら応えた。「生きてるわ」。この山行が私のクライマーとしての生き様に火を付けた。「もっと、チャンとして登りたい!」。 2年半後の秋、確かな登攀技術をつけて再度、板原兼則君と南松ルンゼに再挑戦。それでも核心部はRCCⅡグレードで5級はあったと記憶している。
※私の山行写真は重なる引っ越しの末、すべて紛失してしまいました。アルバムに整理せず、木箱にずさんに保管していたためです。己の整理能力の無さに悔いるばかりです。手に汗握る山の写真や希少なルート図は当時屈指の国内ビッグウォールクライマー「大柳典生氏」のカテゴリhttp://touhanclub.exblog.jp/i3/でお楽しみください。


山岳歴 (仲村利彦/日本山岳会会員)
197105無雪期奈良曽爾村南松ルンぜ初登
197107無雪期燕岳~槍ヶ岳~北穂高岳~奥穂高岳~前穂高岳縦走(単独) <中学3年>
197203積雪期西穂高岳独標 <中学3年>
197208無雪期赤沢山大スラブ~奥壁 <高校1年>
197307無雪期剣岳八ツ峰六峰Dフェース久留米大ルート~チンネ左方ルンゼ~中央チムニーAバンドBクラック <高校1年>
197308無雪期北岳バットレス第四尾根 <高校1年>
197310無雪期前穂高岳屏風岩東壁青白ハング鵬翔ルート <高校1年>
197310無雪期奈良曽爾村南松ルンぜ二登
197311無雪期明星山P6南壁左岩稜 <高校1年>
197406無雪期前穂高岳屏風岩中央カンテ岩溝ルート(単独) <高校2年>
197408無雪期前穂高岳屏風岩中央壁ダイレクトルート~北穂高滝谷第一尾根直上ルート <高校2年>
197411無雪期前穂高岳屏風岩第一ルンゼ <高校2年>
197411無雪期明星山P6南壁吉田ルート <高校2年>
197501冬季八ヶ岳大同心正面壁雲稜ルート <高校2年>
197503積雪期赤沢山大スラブ~奥壁~槍ヶ岳(冬季初継続) <高校2年>
197507無雪期錫杖岳烏帽子岩前衛フェース第一ルンゼ <高校3年>
197508無雪期黒部上ノ黒ビンガ京都ルート(初登) <高校3年>
197508無雪期北岳バットレス第四尾根~中央稜 <高校3年>
197508無雪期北岳バットレス第四尾根下部フランケ~Dガリー奥壁 <高校3年>
197510無雪期前穂高岳屏風岩東稜 <高校3年>
197601冬季前穂高岳屏風岩中央壁ダイレクト下部オリジナルルート <高校3年>
197804残雪期不帰東面二峰尾根~五竜東面GⅣGⅤ中間リッジ~GⅤ
197906無雪期唐沢岳幕岩正面壁静岡ルート
197908無雪期前穂高岳屏風岩右岩壁ルンゼ状スラブJECCルート~赤沢山前衛壁ルンゼ
198010無雪期黒部奥鐘山西壁中央ルンゼルート
198102冬季前穂岳高屏風岩第一ルンゼ
198106無雪期黒部丸山東壁中央壁サウンドトラックスルート(二登)
198109無雪期黒部丸山東壁一ルンゼ右俣左俣中央V字状岩壁直上ルート「イルージョン’81」(初登)
198110無雪期唐沢岳幕岩下部S字ルート~大チムニールート(初登)
198202冬季甲斐駒ヶ岳黄蓮谷右岸支流(初登)
198208無雪期前穂高岳屏風岩東壁雲稜ルート(一部フリー化)
198211無雪期明星山P6南壁左フェースルート
198302冬季八ヶ岳大同心大滝
198305無雪期大台ヶ原東ノ川中ノ滝


〔就職採用試験・面接での苦い思い出〕
クライマーなら誰もが経験あるシーンだと思う。私の場合、初体験は就職採用試験の面接であった。履歴書の趣味欄に「登山」と書いた。どこの企業にも「登山」を趣味とする幹部はいる。富士山は=いいえ。立山は=いいえ。乗鞍岳はい=いいえ。 滝谷や屏風、奥鐘山と言っても話しは盛り上がるまい。ふてくされた己が悪いのだ。一応、登頂経験のある槍や穂高などの名前も言い出せなかった! 聞いてくれればよかったのに! でも二十歳代、既存の山の頂上など記録以外ではどうでもよかった。それが原因か否かは定かではないが不採用が続く。

〔星野隆男さんの遭難〕
70年代初めだったと思う。冬、私は師匠の浜野進氏とともに屏風岩雲稜ルートを目指して上高地から横尾に入った。横尾の避難小屋でみんなが眠っていた。ぼちぼち起きなあかんな~ぁ!? と思っていた夢うつつの闇の中 、突然『滝谷に行くパーティはいませんか~あ?』 と言う声で起こされた。何か尋常でないことが起こったとは推測はできた。後程よくよく詳細を聞くとあの「世界初の三大北壁冬期登攀を成し遂げた」=『星野隆男』氏 が北穂で新人訓練の際、安全エリアのロープを張っているときに雪庇を踏み外して滑落とのこと。星野隆男さん このとき永眠。(当時私が目指した雲稜ルートはT4テラスで敗退。冬季登攀の難しさを知りました。)

※ 山岳同志会の方へ:真実でない場合はtoshi5512jp△yahoo.co.jp 迄ご連絡ください。元登攀倶楽部会員 仲村利彦 が責任をもって書き換え、或いは削除致します。△⇒@に入れ替えてください。(迷惑メール防止)

〔長谷川恒男さんとの出会い〕
1974年の秋、明星山P6南壁ダイレクトルートを目指して明星山へ入った。その日は朝から雨で壁はぬれていた。やや小ぶりになったので取り付くがぬれた石灰岩は石けんのように滑る。やむを得ず、1P目は取り付き点右のガレ場を登りそこから緩傾斜帯を左へトラバって元ルートに合流と計画変更。左へのトラバースを試みるが、これもまたヤバイ。2パーティ4名の山行であったが、次々挑戦しては戻ってくる。トラバースなので、ある程度距離を伸ばすと行くにいけない、戻るにもどれない状況におちいる。それを見越して早めに戻ってくるのだ。私の番がきた。早々に戻るつもりでとりあえずトラバースを始める。私の靴の底が柔らかかったせいだろう、ルートの合流点に達する。それを見てセカンドの小原氏(明治大学山岳部OBで当時登攀倶楽部員)も渋々ついてきた。合流点からツルベで登る。ツルベとは技量が同等のパーティの場合、トップ・セカンドを決めず、セカンドがビレイポイントで確保者を追い越しトップに立つ登り方。そうすればビレイの交代回数も半分ですむことになる。当時はザイルの長さが40mだったので一人が最大80m登ることとなる。私は最初のハングをセカンドで乗越していた。ふと下を見ると見知らぬクライマーが待っている。急いでハングを乗越し再び下を見る。やはり見知らぬ彼はすぐ下で待っているのである。その後、我々が吉田ルートに迷い込みダイレクトルートから外れたためか彼の姿は消えた。吉田ルートに入ったことを知ったとき、壁の傾斜は垂直に近く、元ルートに戻ることなど不可能だった。仕方なくそのまま進む。登り着いた緩傾斜帯のテラスでビバーク。翌日、懸垂で下の河原に降りる。すると我々と同行した一方のパーティで師匠の浜野氏が見知らぬ彼と非常に親しく打ち解け合っている。ただ両名とも非常に臭い。ニンニクの匂いだ。帰路、見知らぬ彼の赤い軽自動車で小滝駅まで送ってもらう。車内の狭さがニンニクの匂いを助長する。季節は11月。乗せてもらっている我が身では「窓を開けてほしい」との言葉も『遠慮』に押し消されてしまう。ただ、車中、運転をしながら見知らぬ彼が当時まだ高校生である私に驚き「将来、楽しみだね」と聞き慣れない関東弁で言ってくれたことを覚えている。小滝駅で見知らぬ彼の車が去った後、師匠の第一声「今の長谷川さん、長谷川恒男さんや」を聞き、驚きと困惑を隠しきれなかった。その年の3月、長谷川恒男氏は谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブを単独初登し、クライマー仲間では話題の人であった。(もちろんエベレストのこと、加藤保男氏との関係も知っていたが我々クライマーの間では滝沢第2スラブの単独初登が当時は何より輝いていた) 師匠の話では長谷川恒男氏はプロの山岳ガイドとしてお客さんを明星山P6南壁ダイレクトルートに案内した。お客さんがハングを乗越せず降りてきたと言う。長谷川恒男氏が生ニンニクを持ってきており、コンロであぶり、食べながら語り明かしたとのこと。師匠も前穂屏風岩の中央カンテや大スラブルートを単独登攀していたが、話している相手が長谷川恒男氏であることを知り、単独登攀の話しは一切しなかったとのこと。長谷川恒男氏がウルタル2峰で雪崩に巻き込まれ遭難する17年前のことである

〔横尾での遭難?〕
単独で前穂屏風岩の中央カンテを登ったときの話である。どこで道に迷ったのか、横尾を目前にしてたどり着けない。こんなことが!? まさに目前である。横尾テント場のざわついた声や、女子大山岳部の透きとおるような歌声が聞こえる。しかし行き行く先、行き行く先、梓川がへだたり、横尾にたどり着けない。屏風を単独で登ったオレがなんで・・・ こんなところで。そんな言葉を心で繰り返しながら梓川を溺れそうになりなり渡渉して横尾小屋へ。当時涸沢から横尾への道は直前の2~300メートル手前に小さな埋もれた岩がありそこを起点に3方に分かれていた。昼間だとどこを行っても無意識に正道に修正できたが、夜ヘッドランプの光が切れかけの状態で河原に近い右の道をとると大変であった。同じような経験の有る方は是非コメントください。

〔小西政継氏との一瞬の出会い〕
1982年屏風の帰りである。私は信州大学の山岳部のベースキャンプに泊めてもらっていた。長野出身の関川君(登攀倶楽部会員/後、大峰の氷爆で遭難)の紹介によるものである。(感謝)上高地の河童橋近くの木のスタンドに見た顔があった。よくよく考えると本で見た顔。小西政継さんだ。「登攀倶楽部の仲村です。」と挨拶、しばらくとりとめもない話をした。話しの詳細は覚えていない。ただ、小西さんの靴が小さすぎたことだけは記憶に残っている。小西政継さん(1996年10月1日- マナスルに登頂後、消息を絶つ。)

〔明星山での恐ろしい思い〕
明星山P6南壁左フェースを登ったときである。もとももとこの壁は嫌いであった。吉田ルートの苦い思い。慣れていない石灰岩。磨かれた鋭角のエッジ、ザイルが触れると切れるに違いない。濡れると石鹸のように滑る岩肌。岩壁そのものの標高は低く、登攀中の景観もさほどよくない。今ひとつのりきれない気持ちのまま取り付く。2~3ピッチ目だったと思う。私は顕著なクラックに足をねじ込み、ひねり立ち上がろうとした。そのときである。「ゴォ~」と音とともにクラックが数センチひらいた。恐ろしい限りである。山で生死の境と思った瞬間は幾度かあった。単独で屏風を登っていたとき、アブミに体重をかけたとたん縦リスのハーケンが下にズレ、アゴで止まったことがあった。また、バイクの轟音をひびかせるような落石がヘルメットの一部を削って通過したこともある。しかし現実の危険度はともあれ、このときの恐怖感はこれらの比ではない。この岩が落ちれば数トンの崩壊どころか、壁の形相が変わる。そう思われるほどの大きな岩塊であった。

〔アブミで糞をした おはなし〕
冬の屏風岩中央壁ダイレクトルート登攀中である。登る前から便意はあった。ただ、いつも登る内に失せていた。今回もそうだと登り始めたが、そうではなかった。半ピッチほど登ったところで我慢は限界に達した。冬の衣服は何重にもなっている。ゼルプストもある。私は不安定なハーケンからボルトに移ったとたん我慢できず、アブミ 二つを同一のピンにセットし、排便の用意に入った。当時のゼルプストは腰のみのものが流行りつつあったが私は用心のため冬期は胸と腰セパレートにしていた。(当時は腰ゼルプストは落下したら反転するという説が山岳雑誌をにぎわしていた)腰のゼルプストを外し、『用』 を達す。快便であった。支点のボルトを見ていたので「もの」の落下は見ていないが機嫌良く墜ちて行ってくれたに違いない。下でビレイをしていたMさん「ごめんなさいネ」。ホゥっとして上を目指す。
※1980年代に入るとハーネスに名称を変えるが、この頃はまだゼルプストと呼ばれていた。

〔登攀倶楽部の愛称〕
登攀倶楽部京都では不思議に「愛称」で呼んでいた。べえちゃん・ゆうボウ・ゴンちゃん・トヨはん など。大柳氏の場合、当時流行っていた「小柳ルミ子」から姓の大・小はかまわず愛称は「ルミコ」であった。もちろん男性である。小柳ルミ子とは関係ない。乱暴な愛称である。ただ、山で極限状態に陥った際、「愛称」でお互いを呼ぶことによって緊張感がほぐれる。 山家の勘がそのように導いたのではなかったのか? 今だからそう思える。ちなみに私の場合、高校生時代から入会していたので通称「としぼう」であっが、前穂屏風岩によく通っていたので「びょうぶ」⇒「ばぶ」と変化し、小生意気な後輩「IO君」から「ばぶ坊」と呼ばれていた。

〔落下その1・人が落ちる瞬間〕
登攀倶楽部入会前である。前穂屏風岩の東壁、鵬翔ルートを登った。東壁には青白ハングという有名なハング帯がある。その基部には大テラスがある。テント二張りは張れる大きく安定したテラスだ。ここから青白ハングの登攀がはじまる。前傾した壁がつづき、登れば登るほど前傾はきつくなり、最後は庇状になっている。アブミによる人工登攀だ。鵬翔ルートの場合、青白ハングの初登ルートであることから最後の庇はそれほど大きく出っ張ってはいない。ただ、他のルートが比較的ボルトが多いのに比べ鵬翔ルートはハーケン連打である。
それも縦リスが多い。横リスのハーケンは引っ張れば抜けるものでも下に力がかかれば持ち堪えてくれる。縦リスのハーケンにはそれがない。説明するには難しいが、当時少し高価な縦リスハーケンにはアゴがついていた。ハーケンが抜けようとし下に傾いたとき一端、アゴを支点として止まる仕組みである。ただ、それ以上に力がかかった場合は、アゴを支点としてハーケンは抜ける。体重移動などでアゴで止まった瞬間、ゆっくりと元のアブミに戻れば難は逃れることはできる。事実その経験は私にもある。ただ、落下となるとアゴの効力は効かない。登攀に関していえば落下には2種類ある。「自然落下」と「静動落下」だ。同じ落下であってもこのふたつは大きく違う。自然落下とは引力にまかせて落ちること。静動落下とは単に引力に任せず上への力が幾分か働く落下である。セカンドが落ちた場合、ザイルを張った状態であると上からトップが確保しているので即止まらないまでも静動は働いている。トップが落ちた場合、最短ピンの距離までの2倍が自然落下の状態となる。話を元に戻す。そのとき、私はセカンドで青白ハングを登っていた。下を見ると10メートルほど下に後続クライマーのヘルメットが見えた。アブミをかけるハーケンは40センチ間隔で多すぎるくらいあった。冬季登られているので着ぶくれした、或いはハーケンを見つけ出せなかった登攀者が打ち足したのであろう。アブミの掛け替えに苦労はなかった。半ピッチ(20m)を越えたあたりか?下から「アッ」という声が聞こえた。後続のクライマーがスローもションで落ちてゆく。ピュン、ピュン、ピュン、ハーケンの抜ける音が壁に響く。次の瞬間、確保者が跳んだ。止まった。上から見ていたので距離感は定かではないが大テラスまでわずか1~2メートルのところに見えた。ハングなので途中までは空中の自然落下である。落下を止めたピン、確保者、セルフビレイ点が3次元上で一直線になっていた。人の身体には弾力性がある。これも効果的であった。ピュン、ピュンと抜けたハーケンもその都度、静動作用をかけてくれていたと思う。「大丈夫ですかぁ~!」叫んだ。「は~い。降りまぁ~っす」と叫び、懸垂下降で降りていった。ハーケンが数本抜けたことは間違いない。ただ、衝撃だったのは落下を止めた瞬間、確保者が大きく跳んだことだ。それ以来、私は可能な限りボディビレイする。かつ、セルフビレイは必ず短く、片手がとどく範囲にするよう徹した。
鵬翔山岳会アーカイブスブログ 穂高屏風岩東壁青白ハングルート初登攀
e0304295_344444.jpg上記ルート図は登攀倶楽部会報より抜粋

〔ナメクジ〕
上ノ黒ビンガでのことである。登攀用ハンモックで寝た。吊していた壁はほぼ垂直であったがハンモックに乗ると壁側の圧力が結構ある。ハングなら問題はないのだが・・・ 周りを見るとハンモックビバークに慣れた者はエアークッションを壁側に挟み快適に寝ている。壁の圧力が気になって寝つかれなかったが、疲れていたのだろう。遅れてではあるが寝ることはできた。日の出とともに起きる。すると壁側の手が異様にヌルヌルしたものに触れていることに気づく。見ると今まで見たことのない巨大ナメクジであった。長さだけで親指の2倍はあったろう。黒部は何についても規模がデカイと思った。巨大ナメクジは指で払って下の黒部川に落とした。

〔単独登攀〕
単独登攀の方法には大きく分けて2種類ある。ノーザイルで一気に登る方法。長谷川恒男氏が滝沢第2スラブを冬季単独初登したときはこの"一気"方法だったと思う。もうひとつはZ(ゼット)方式である。それは1ピッチごとに登って降りて登りなおす方法。文字の形と実際の図式的にはN(エヌ)方式といった方がわかりやすいと思う。ただここでは従来のZ方式と表現する。Z方式について少し詳しく説明する。ザイルの末端にザックを結びつける。クライマーが落下し荷重がかかったとき支点ピンを起点にしてザックは上に引っ張り上げられる。そのときザイルの末端がカラビナを通過しないようにするためだ。ザックにはセルフビレイをする。それがあまり効き過ぎると支点への荷重が大きすぎてランニングビレイ点が抜ける可能性がある。そのためザックのセルフビレイ点からクライマー側1m程度のところで束ね靴紐など、一定以上の荷重がかかるとたやすく切れそうな紐で結んでおく。ただこれは気休めだろう。クライマー側はザイルに6mmシュリンゲをプルージックで巻き付け一方をゼルプストに接続する。私の場合はプルージックを上下2カ所取った。ユマールなど登高器の方が使い安いのではとお考えの方もいるだろう。しかし、ユマールのギザギザ突起はザイルを切断する可能性があると言われていた。数mの自然落下の場合、その可能性は大いにある。当時のZ方式では初回の登攀はみんなプールージックを使用していた。誇張もあると思うが、かの木下誠氏がチンネ左岩稜単独でザイルいっぱい(つまり40×2の80m)転落し九死に一生を得た話がある。このときも聞くところによるとプールージックだったとのこと。とは言えプルージックにも予想外の危険がある。落下の恐怖のあまりプルージックとザイルの接続部を握ってしまったら? プルージックは効かず、ザイルを滑る。やがて6mmのシュリンゲはザイルとの摩擦に耐えきれず溶けて切断する。間違いない。岩登りのゲレンデでの実験の結果だ。また、ザックを結んでいる反対の末端をクライマーにつないだ方がより安全ではないか? これも実験の結果ダメ。プルージックとクライマーの間のザイルがUの字になり、引っかかってしまい動きがとれなくなる。せめて、もう一方の末端に結び目を入れ、プルージックが効かずかつ溶けなかった場合、結び目で止まるようにしては?これもダメ。結び目くらいと思うだろうが、これがブッシュやクラックに予想以上にたやすくつかまる。ザイルの末端はそのままにしておき出る方向から逆にザイルを自然に置いていく。これがベストだ。丁寧に出やすいようにザイルを巻き置いてはならない。下がハング帯であってもザイルを空中にぶら下げてはならない。風でザイルがどこかに引っかかれば「万事休す」である。とにかく、Z方式で途中ザイルが出なくなると死に直結する。40mザイルでは20mを越えた時点でアクシデントがあった場合。後戻りできない。説明が長くなった。次に急ぐ。ピッチの終点に到達すると安全なピンを支点にクライマーはザイルをセットし登ってきたルートを懸垂下降する。ランニングビレイのカラビナやシュリンゲを回収しながら。元のザック置いていたところまで戻ると今度はザックを担ぎ、同ピッチを登り直す。このとき登高器があれば便利だ。が、当時ユマールは高価であった。高校生には買えなかった。私はプルージックを結ぶ際、ザイルとの間にカラビナをかます方法で乗り切った。それで十分であったように思う。
※木下氏とは生前、登攀倶楽部の例会や山で幾度か会ったがチンネでの墜落に話が及んだことはない。従ってこの件の真相は分からない。

〔犬跡線〕
『犬跡線』という言葉がある。飼い主を走らせる。しばらくして、飼い主を走らせた地点から横幅数十メートルの間隔をおいて犬を走らせる。犬は飼い主に早く近づこうとするが、走る軌跡は合理的ではない。できるだけ飼い主を正面に見ながら近づこうとする。飼い主の軌跡を計算して直線的最短距離で合流できない。反比例のグラフにも似た曲線となる。この追跡曲線を『犬跡線』という。山人生もそうである。そのとき、その瞬間の目標を正面にもとめて不合理な犬跡線をたどる。人生も。 

〔最も難しいルート〕
登攀を何年か経験すると、本当に危険なルートかそうでないか、わかる。(技術的に難しくても雪崩の危険なく、いつでも退却できる場合は気楽である。)当時、難易度は第二次RCCのルート図がバイブルであった。6級を上限とするグレード形式である。6級ルートの冬季登攀。最高のステイタスとしてこれを目指す。ところがそれに載っていないルートがある。鹿島槍・五竜・不帰など積雪期にしか登ることができないルートだ。これらを含めて考えると当時総合的に、国内最難関ルートは「鹿島槍ヶ岳北壁中央ルンゼ」であったと思う。登攀倶楽部には完登した先輩もいる。建部氏&鈴木氏だ。しかし核心部でトップの建部氏が落ちている。私の知る限り同ルートを登り切ったクライマーはみんな地獄を経験している。鹿島北壁中央ルンゼ。私にとって国内ルートの最終目標であったが登ることはできなかった。慎重すぎるあまり時期を逃してしまったのか?・・・だから今、自分はここに居てこのブログを書けるのか? 
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by touhanclub | 2013-01-02 23:47 | 仲村利彦の部屋

山と当時のひととの出会い (2)

〔滝谷第一尾根の苦い経験〕
我々は前日、前穂屏風岩の中央壁ダイレクトルートを登り、ウキウキ気分であった。今日は滝谷第一尾根を登る。第一尾根を選んだのは北穂山頂に一番近いルートを登りたかったためだ。当時滝谷第一尾根にはクラッシックなノーマルルートと直上ルートがあった。我々はより難しいであろう直上トルートを選んだ。ノーマルルートは初登ルートで良ルートと聞いている。直上の方はほとんど登られていない廃ルートだったのだ。ハーケンは浮き、最終ピッチのルンゼは浮き石だらけだ。パートナーの宮形恒光君はルンゼの浮き石で足をやられてしまった(その後の歩行には問題なかったがとりあえずトップを替わった)。北穂の売店の兄ちゃんも我々が登攀倶楽部と知り3時間程度で帰ってくると思っていたそうだが、6時間もかかってしまい何かあったのかと心配していたそうである。教訓だが先ずは初登のノーマルートを登るべきである。それがその壁の醍醐味である。奥鐘なら紫岳会ルートか?私は紫岳会ルートを登っていない。

〔悪運強い彼〕
山は運次第の要素は多分にある。Hくんを思い出す。所属山学会はK山岳会。登攀倶楽部ではなかったが、大学は同じで、彼はワンダーフォーゲル部に属していた。まず、彼は比良山で10年に一度あるかないかの雪崩にあって高島の病院へ入院。数年後、前穂屏風岩の第一ルンゼで横尾まで轟く壁の崩壊にあう。それでも、重傷ながら生還。その後一ルンゼはルートが変わったという。彼は会うたびに長年、体に埋まっていた接骨ボルトを見せる。「不幸中の幸い」とは言うが、結果的に「運」はよかったのか。

〔山の怖さ〕
岩登りを数年やっていると、本当に山が怖くなる。知り合いの死や事故を数々知ることとなる。ある日、私はいやいや山行準備をしている自分に気づいた。食料や燃料の買い出し。以前のようなウキウキワクワク感がない。デブリを通過するとき、あるはずのない硫黄の臭いが鼻を刺激する。恐怖が臭覚に信号を発している。
甲斐駒の七丈爆を登りに行ったが、ピーカンにも関わらず「温度が上がり過ぎている。」と判断し敗退した。正直、怖かったのだ。

〔落下その2・人が墜ちる音〕
六甲山の蓬莱峡での出来事である。ドンとの大きな音とわずかな地響きがあった。何があったのかと見渡すと大屏風の下降路の下の河原で人が横たわっていた。意識はなかったが出血もなかった。青年であった。知り合いらしき人もいなっかったので一人で来たと思う。しばらくして救急車が着た。誰かが呼んだのであろう。携帯のない時代である。青年のその後のことは知るすべもない。ただ、人が地面にたたきつけられる音の大きさには驚いた。岩登りの怖さが増した。

〔不動岩〕
岩登りの練習場を何故か、ゲレンデと言う。六甲周辺の岩場である。とは言え、危険度は本番(ホンチャン)と変わらない。百丈岩などは100メートルもある。前穂東面のDフェースとあまり変わらないと思う。関西では先の百丈岩を始め、仁川・芦屋ロックガーデン・不動岩・堡塁岩・蓬莱峡などがある。それぞれの岩場で多くのクライマーが命を落としている。「ゲレンデ」と呼ばれる言葉の軽さが災いの元か。墜ちたら死ぬ原理はどこでも同じである。落石の危険度も同じだ。事実、知人が散った場所は「ゲレンデ」と「ホンチャン」を比較すると大きな違いはない。話はかわるが当時、神戸のクライマーは主に堡塁岩、大阪のクライマーは不動岩を練習の場としていた。私自身も大阪の人間だったので不動岩に通った。ナメクジハング・菱形・太鼓ハングは懐かしい言葉である。 おもしろいブログを見つけた。世代的には私より数年後のクライマーと思うが気持ちは大いに通ずるものがある。
一度、訪れて頂きたい。
http://www.ne.jp/asahi/mtikusa/net/contents/climb2/memories/fudo82.htm

〔40m ノーピン〕
往年のクライマーなら一度や二度は経験あるだろう。ザイル一杯、つまり40mノーピンで行き詰まったこと。またはノーザイルで行き詰まったこと。ここで落ちれば確実に死ぬ場面である。ナメてかかったわけではないが、緩傾斜が気付くと垂直になっていた。順層のホールド・スタンスが急に逆層になった場合などである。「しまった」とは思うが、もう遅い。ザイルは緩やかなループを描きながら何ひとつの屈曲もなく確保者まで伸びていたりして・・・ 「たのむで」と下に叫びながら見えぬホールドに飛びつく。ニコニコホールドであった。今でも年に3回ほど夢にでてくる。そして起こされる。

〔下あごの前歯〕
この年になると歯医者は欠かせない。カブセが抜けたり、虫歯が見つかったりである。歯科医に行くたび言われる。「他の歯は年齢にしては若いのに下あごの前歯だけは摩耗しすぎている。」ハタと気付いた。冬の屏風で下向きのブッシュを束にして噛んで、両手をはなし腕力を回復したことがあった。不帰でも下向きのハイマツを噛んで同様なことをした覚えがある。最悪の状況下での私のクセなのである。口は第三の腕? ぼちぼち総入れ歯か。

〔カモシカその1・幕岩編〕
幕岩へのアプローチであった。視界の悪い森林帯を歩いていると、前方からかすかな音が聞こえた。落下音と言うより何かが崩れたような音である。しばらく歩くと「大町の宿」(とは言っても岩小屋だが)が近づき谷ではあるが視界が開けてきた。谷を囲む左右の尾根と正面に幕岩が見える。そのときである。我々が進むべき前方に茶色の物体がガレ場の中に見える。駆け寄って確認する。羊の1.5倍ほどのカモシカであった。つい今、左岸の急斜面から滑落したのであろう。ツヤと張りのあるあるきれいな体毛と温かい体温がそれを証明していた。不謹慎ではあるが正直、美味そうであった。新鮮なカモシカであった。それとも、私の腹が減っていただけ・・・?

〔カモシカその2・黒戸尾根〕
甲斐駒、黒戸尾根の八合目付近での出来事である。雪が深々と降っていた。視界は数メートルほどであった。無風に近かったと思う。急な傾斜を登りきった。すると、今まで見たことのない巨大きな生き物が目の前に立ちはだかる。色は月輪熊ほど黒い。体高は牛ほど。恐る恐る近づき確認すると巨大なカモシカであった。どう表現したら良いのか? 「黒いジャコウ牛」とでも言うべきか。威嚇するつもりはなかったが、驚きのあまり目と目が合ったまま数秒経った。その後、動じぬ「黒いジャコウ牛」に恐怖を覚えた。しかし、すぐ彼には敵意のないことが理解できた。そして次の瞬間、この山の「主」或いは「神」に対面しているような崇高な思いに至った。真空の時間の後、彼は何もなかったようにゆっくり体を反転させ私の視界から離れて行った。この間、実際は数秒であったかも知れない。ただ、私にとっては長い時間に感じられた。黒戸尾根八合目で見た「黒いジャコウ牛」、彼は甲斐駒の「神」ではなかったのか。

〔小屋番〕
高校時代のこと。南ア北岳バットレスの下山途中 ”御池小屋” で休憩した。白根御池にある山小屋である。池と言っても立派なものではない。ただ、何故ここに池があるのか? 地学的には貴重かも知れない。それでも、当時高校生の私にとってそれはどうでもよかった。衝動的ではあったが、小屋番に雇ってもらえないかと尋ねた。主人のおっちゃんはしばらく考えた後、8月末までならと了解してくれた。「っと言うことだから」とパートナーのK君を一人で下山させ、帰した。(なんと無責任で勝手なヤツだろう。反省!) で、小屋番生活に入る。朝は3:30AM起床。登山者のための昼食「おむすび」をにぎり、たくあんを付ける。登山者を見送った後は一眠りして、布団・毛布を乾す。昼は売店の番。夕方はテン場を廻ってキャンプ料の集金。キャンプ料の集金については ”ひともんちゃく” あった。公園内で何故使用料を要求するのか? 単にテントを張っているだけで何故? 私は水の使用、ゴミの処理やトイレのことなどを切々と解き納得して頂いた。この経験はその後、私の人生に大きく役立った気がする。
今や御池小屋は大きくなったようである。一度、URLを訪れて頂きたい。
http://outdoor.geocities.jp/shiraneoikekoya/

〔小屋番:玉子の運搬〕
当時、山小屋での朝食は「玉子かけご飯」であった。玉子は結構、保つものである。2週間に1回、下の村から玉子を運ぶ。玉子の箱はほとんどがクッションで見た目より軽い。背負った高さは頭より30センチ上にくるが重さは10Kgに満たない。それを背負って走って登る。「山小屋の兄ちゃんはすごいなぁ!」と声がする。気分は良い。が、「見掛け倒し」である。

〔ヒスイ〕
明星山と書いて、「みょうじざん」? これはどうやら間違いらしい。ルート図を作った元RCCⅡのメンバーで登攀倶楽部員の大下さんに聞くと「みょうじざん」は「みょうじょうざん」の誤植とのこと。それはともかく、この石灰岩の山は不思議な山である。ルートを登りながら、或いは下降しながら観察すると、小さな穴が所々で見つかる。覗いても中は真っ暗。声を発したら山彦が返ってくる場合もあれば、永遠の空間に飲み込まれることもある。明星山には巨大な鍾乳洞があり日本海まで達しているとの説があるらしい。かつてはヒスイの産地でもあったとのこと。明星山P6南壁左岩稜を登ったときである。終了点の間近で、半透明で緑色の岩塊を見つけた。握り拳より大きめの球形で重さは1.5Kgくらい。直感的に「めずらしいもの」と思い、ザックに入れる。完登後、いくつかの尾根を横断する下降路でビバークを強いられる。私は負担に耐えかねて躊躇せず、その岩塊を捨ててしまった。今「お宝鑑定」に出品すればかなり高価な代物ではなかったかと後悔している。

〔盆栽〕
海谷山塊に行った。壁の名前は忘れたが、その壁を対岸の岩小屋から眺めるとただものではない恐れを感じた。逆層で規模も傾斜もかなりのものであった。我々の装備も対応し切れていないが、何より心構えが出来ていない。壁の大きさは奥鐘に匹敵する。壁の形相は奥鐘のようなハング帯は無いが、壁全体が逆層のルンゼの集合体で、リスもクラックも少なそうである。パートナーのU君も同じように感じていたと思う。しかしお互い強気である。「こんな壁、登っても男が上がらん。」と意見が一致。急きょ、黒部の丸山に目標を変更し、海谷を下山する。下山途中、変電所係員の車に拾われる。同乗し会話をするが話がかみ合わない。我々が単に壁を登りに来たと言っても信じてくれないのだ。「盆栽取り」と誤解される。事実、壁に生えた盆栽は一株 数十万円単位で取引されるらしい。元クライマーのみなさん! 懸垂下降で「盆栽採集の副収入」は如何なものか? 合法か非合法かの確認は各自でお願いしたい。

〔釜トン〕
冬の横尾へのアプローチは沢渡までタクシーで行き、そこから徒歩である。「釜トンネル」=通称「釜トン」がある。今は整備されたそうであるが、当時は岩肌むき出しのトンネルで入口と出口はむしろで覆われていた。出入口付近は雪崩の巣で最も危険な箇所でもある。滝谷や屏風岩など難ルートを成功させながら釜トンの出入口で雪崩に遭い亡くなった例もある。トンネル内は真っ暗でヘッドランプを用意する。路面は青氷に覆われており「必ずひっくり返る」ただ、登山者はザックを担いでいるので後ろ向きにひっくり返る分にはお笑いですむ。お互い何回ひっくり返るか勝負する。上高地からの下山の途中、釜トンを出たところのデブリ、これは要注意であった。デブリは道をふさぎ、数十メートル下の谷底まで達している。そこをトラバースする。落ちれば絶命間違いない。穂高の登攀はここを乗り切って成功となる。 ※釜トンのデブリについては年により違いがあります。

〔ステイタス〕
登攀にはステイタスがある。不謹慎かも知れないがポーカーに例える。初登がストレートなら、冬季単独登攀はロイヤルストレートフラッシュだ。①初登 ②単独 ③冬季 ④冬季単独。②と③の優位性はルートの状況によって入れ替わる。ただ、8000m級を超える場合は「無酸素」の有無が飾り詞として付く。グランドジョラス北壁単独初登の「長谷川恒男氏」と「森田勝氏」の初登争いは凄まじかった。ローカルではなく全国ニュースで両者の動向を随時追跡し公表した。山が熱かった最後のときでる。ところで、チョモランマ(エブェレスト)の無酸素単独登頂は、かのラインフォルト・メスナ-氏だが、冬季無酸素単独登頂は誰か? ご存じの方、教えて頂きたい。長谷川氏も森田氏も逝ってしまった。

〔山は逃げない?〕
「山は逃げない」と言われる。されど「己が逃げる」のである。「体力が逃げる」・「技術が逃げる」・「ヤル気が逃げる」、 体力・技術・気持ちが最も充実しているときに自分が魅力とする壁に出会ったクライマーは幸せである。昨年の春、30年ぶりに元登攀倶楽部員の飲み会を催した。TさんとKくんが現役で活躍していることを知る。尊敬する。エネルギーの源を聞いてみたい。

〔ザイルがロープになった日〕
当時、山岳界は一風変わっていた。大学の山岳部はその活動内容から体育会系であるが、必ずしもそうではなかった。山岳文学や山岳写真など文化系的要素も多分にあった。ある意味、情緒があったと言える。ザイル・アイゼン・ピッケルなど、ドイツ語を主としたヨーロッパ言語に由来がある。これは山を単なるスポーツとしてではなく職人としてのプライドを込めての表現でもあったのであろう。ルートの難易度も6級を上限にしていた。当時の若いクライマーは6級ルートををめざし、日々練習に励んでいたと思う。ラインフォルト・メスナ-氏の「第7級極限の登攀」を読んで発憤したクライマーは当時、少なくないだろう。ところが、1980年代中頃だったと思う。大きな変化の波が押し寄せてきた。アメリカのヨセミテ文化が入ってきた。グレードは6段階ではなく5.10a~ など、細分化されることになる。ザイルはロープと言うあたりまえの和風英語になった。当時、曖昧であったフリーという言葉に厳密性が加わった。自然を損なわず美しく登れ!である。それはそれで一貫性があり納得できる。
この間、テレビでボルネオのキナバル「親指岩峰」の登攀を試みる有名クライマーUさんの映像を見た。見間違えていないとは思うが、Uさんは安易な別ルートから親指岩峰の頂点に達し、そこから懸垂下降⇒トップロープでルートに挑戦。結果、完全フリーでは登れなかったようではある・・・ 途中まで真剣に見ていたが最終的には茶番であった。
登り方はそれぞれであって良い。安全性を考えればボルトやハーケン連打もやむを得ず。岩登りの方法は時代とともに多岐に分かれる。それぞれ良いと思うが、岩登りの本質はあくまで下から上に登ることではないか。上から懸垂下降をして壁を観察し、方法を思案しながら登り直すのは如何なものか? 壁に対して失礼ではないか? ザイルの末端に靴を結び放り絡め中央カンテを初登した、かの松本龍雄氏に尋ねてみたい。

〔軽量化〕
どこまで軽量化は可能なのか? やはり食糧である。赤沢山大スラブ~奥壁~槍~北鎌尾根を計画の際、アルファ米に味付け板海苔と梅干し一つに限って山行計画を練った。2日目までは問題はなかったが、3日目以降異変が生じる。不運か、風吹によって槍の肩小屋で3日間の沈滞を余儀なくされる。栄養失調とビタミン不足だろう、爪の付け根の皮膚が開く。奥歯が浮き思うようにものが噛めない。沈滞4日目の朝、積雪で小さくなった小屋の出入口から外を見る。相変わらず真っ白であった。「今日もダメか」と思う。ただ、真っ白の奥が妙に明るい。雪洞状の出口を這って外に出てみる。するとどうだろう!外は真っ青な好天の空であった。小屋の出入口は窪みになっていた。そこだけが吹きだまりになり雪が舞っていたのだ。いつからかは分からない。当初、我々は北鎌尾根を降りる予定であったが、そんな余裕などない。急ぎ、飛驒側に降りる。新雪が下山を阻む。雪が柔らかすぎてシリセードもできない。ザックを背にして雪中を泳ぐと重さで進まない。ザックをシュリンゲで体につなぎ泳ぐ。これがベストであった。とりあえず犬かき、平泳ぎを駆使しひたすら下山する。無事下山。空腹ではあったが、とりあえず風呂でサッパリしてから空腹を癒やそうと銭湯に向かい体重を量る。平均体重マイナス7kgであった。食事後、再度銭湯に入り体重を量る。平均体重プラス5kgであった。3時間足らずの体重の変化12kg。ボクサーもビックリかも!?

〔奥鐘の潜水艦〕
奥鐘山西壁の取付点対岸には、適当な岩小屋がいくつかある。先着順に快適な岩小屋を選び占拠する。河原を掘れば温泉にも入ることができる。紫岳会ルートの取付点付近の河原を掘るのである。流れ着いた枯れ枝は無数にある。乾いた灌木も豊富だ。食糧さえあれば快適である。但し、夏場の山ダニを除けばだが。そんな黒部川源流の河原にも炊事に格好な場所はそう多くない。中腰になって食器を洗うことが出来る深場の淀みだ。そこに我々が以前から「潜水艦」と呼ぶ一尾の大岩魚が棲んでいる。体長は70センチほど。食器を洗う際の残飯を喰っているのだから成長も他の比ではない。釣り針にミミズを付けて目の前に落とすのだがまったく反応しない。百戦錬磨の黒部の主である。その手には掛からない。潜水艦の話をして私と同行していたフィッシャーマンのT君がフライフィッシングを試みる。食器を洗う場所から離れ、高台の岩の上からフライを落とす。少し反応したが即、Uの字に方向転換をする。T君は現場で巨大なアブを見て、2センチほどの通常では使わない大きなフライに替える。着水と同時に引きが伝わってきた。素早く糸を張ったまま高台から炊事場に移動をする。その間一瞬、糸が岩に擦れる。糸が風になびいた。糸が切れたのだ。しばらく「潜水艦」は岩穴に潜んだのであろう。姿を見せなかった。次の日の下山直前、再度例の炊事場を見た。「潜水艦」は悠々と泳いでいた。私は「これで良かった」とも覚えた。

〔Google Earth〕
私が現役の時代、3D写真などなかった。もちろん ”google earth” もだ。人は見た目で全体を想像する。屏風や滝谷、剱のチンネなどは強烈であった。特にチンネは私の経験上では独立峰のであった。ところが、である、”google earth” を見ると「チンネ」の名称記載はない。必死に探した。あの巨大な岩峰が記されていない。航空写真でも探すことが出来ない。写真の方向を ”三の窓” 方向からの展望にスライドさせる。出てきた。紛れもなく私が知る「チンネ」の全貌だ。中央バンド、左岩稜が見える。ここで気付く。チンネは独立峰ではなく八ツ峰の ”三の窓” 側フェース>であったことを。そう言えばチンネを登った後、大きな下降をすることなく主稜線にでた。チンネが独立峰なら下降があったはず。ついでに任せて穂高の屏風岩を ”google earth” で見る。覚悟はしていたが中央壁も涸沢へのルートから見た巨大な墓石を下から見上げるような威圧感はない。青白ハングもかすかなもの。そこに「緑」・「小倉」・「鵬翔」・「ディレテシマ」など多くのルートがひしめくとは考えられないスペースだ。T4尾根取付からから見たあの巨大な大スラブや一ルンゼ、涸沢へのルートから見た中央カンテ、右岩壁は地球的規模から見れば石ころに刻まれた小さなシワだろう。現役時代 ”google earth” が存在しなかった。少なくとも当時私はもう少し大きなものに挑戦しているつもりであったから。
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 by google Earth ※Google Earthの画像を転用しています。問題がありましたらご連絡下さい。即、削除致します。

〔大山北壁〕
大阪という土地柄、冬の大山にはよく行った。が、縦走できたのは1回きりだ。或日など、一般ルートでありながら、腰までの小雪崩に巻きこまれた。恐ろしい山である。元谷小屋で分かれ、再会できなかったパーティの話はよく聞いた。されど1500mそこそこの山。大山北壁(大屏風・小屏風)を本チャンと位置づけるか、冬壁のゲレンデと位置づけるかは本人の考え方次第である。昔、同じ山の店で働いていたKさん(私はアルバイトであったがKさんは正社員であった)は嬉しそうに私に言った「今度、大山北壁に行くんや!!」その言葉を聞いたとき何か解らぬ不安を感じたが、言葉には表せなかった。数日後アルバイトとして山の店に出勤する。妙に店が慌ただしい。Kさんが帰ってこないのだ。その春、ツエルトとともにKさんの遺体が発見された。ツエルトの中で雪崩に遭ったのか?大山は恐ろしい山である。

〔七面岩南壁と藤内壁〕
岩登りを始めてすぐであったと思う。当時、師匠の浜野さんと何処に行こうかと相談した。鈴鹿の藤内か大峰の七面岩、どっちにしよう? 軽い気持ちで七面に行くこととなる。しかし実際に行くと車の無い我々にとって林道を含め、徒歩で取付点まで1日半かかった。進むごとに七面岩南壁が近づく。霧を基部に従えた七面岩南壁は圧巻であった。ほぼ垂直で400m以上はあろう。10ピッチ以上は間違いない。藤内壁と比べるべき壁では無いことがこの時点でお互い確信した。完登には7時間はかかる。装備もゲレンデ用で不十分であった。何より心構えが不十分であった。浜野氏とは相談はしなかったが暗黙の了解であったろう。二人で壁に向かってゴメンと一言、合掌して退却した。
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by touhanclub | 2013-01-02 22:00 | 仲村利彦の部屋

山と当時のひととの出会い (3)

〔クレバスに消えた女性隊員・・・ 私 ここで死ぬからぁ-〕
もし、あなたならこの言葉 言えるだろうか? 1981年 私は学生でした。この事故を目の当たりにしてからだが震えました。彼女は神になった。そう思う。

京都山岳会登山隊の白水ミツ子隊員が、第一キャンプからベースキャンブへ下山中、ボゴダ氷河のヒドン・クレバスに転落、死亡したのは、一九八一年六月十日のことであった。
もちろん、この日、死亡がはっきりと確認されたわけではなく、救出が困難なままに、氷河の中に見捨てざるを得なかったのである。白水隊員は救出の断念を自ら望んだが、暗黒の氷の割れ目の中で、一条の生の光に望みを託しながら最後まで死とたたかっていたとすれば、その死亡日付はあるいは半日か一日、変更されることとなるわけである。

記録――六月十日午前十一時二十分、ボゴダ峰第一キャンプから三十分ほど下ったアイスフォール帯直下の広い雪原状の氷河上で白水隊員はクレバスに転落した。
直ちに第一キャンプに緊急連絡され、第二キャンプからかけつけた救助隊員が現場に到着したのは十三時十分。彼女の生存は確認された。宮川隊員がクレバスへの下降を試みる。
入口は八十センチくらいの人間がやっとひとりくぐれるくらいの氷の割れ目だが、中に入るにしたがってさらに狭くなり、上から四メートルのところで少し屈曲して幅は五十センチくらい。そこで下の方にひっかかっているザックが見えた。しかしそこからはさらに狭くなり、靴を真っすぐにしては入れず、アイゼンの爪が効かない。ザイルにぶらさがったままの状態で、少しずつ降ろしてもらい、ようやくザックに達する。「大丈夫かあ」期待をこめてザックに手をかけるが、その下に白水さんはいない。声をかけると、応答はあった。が、まだはるか下の方である。
そこからは氷の壁はまた少し屈曲し、真っ暗で、さらに狭くてそれ以上は下降できない。やむなくザイルの端にカラビナとへッドランプをつけて降ろす。一○メートル(上からは二○メートル)降ろしたところで彼女に達したようだが、彼女自身どうにもザイルをつかまえることが出来ないのか、ザイルはかすかな手ごたえを感じるが、そのまま空しく上がってくる。
そういう作業を何度も「しっかりしろ」と大声で彼女に呼びかけながらやっている時に、
「宮川さぁーん、私ここで死ぬからあー」
「宮川さぁーん、奥さんも子供もいるからー、あぶないからぁー、もういいよぉー」
という声。かなり弱った声だったが、叫ぶような声だった。彼女自身でもう駄目と判断してのことだろう。
まったくやり切れない気持ちだった。声が聞こえてくるのに助けられない。くやしさが全身を貫く。
十六時、彼女の声はまったく聞こえなくなった。カメラ助手の新谷隊員、そして当日頂上アタックした山田、大野両隊員もクレバスに降りた。しかし誰も宮川隊員が降りた位置より下には行けず、二十一時ついに救助作業を打ち切った。(京都山岳会隊・宮川清明隊員の手記)
白水さんは二十九歳、独身だった。

「みちくさ新聞」3号掲載
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9003/books21.htm

http://www.akiya-yutaka.com/kurebusuni.html

〔登攀倶楽部〕
私は今、登攀倶楽部の旧会報をスキャンしブログUPをしている。その会報「攀No.2」の "座談会"「クラブを語る」を読んだ。すごい会である。確かに自由であった。月に一度の会合はパートナー選びの場であり、合宿など目標を一つにした集団山行の話は一切なかった。だから、登攀倶楽部「京都」では新人の入会はお断り。教えるより自分の山行重視であった。ここに行き着くまでに紆余曲折があったことを今更ながら知る今日この頃・・・

http://www.kangojuken.com/touhanclub/yojiru2scan-35.pdf

〔西穂山荘のウイスキーを全部飲み干した愚かなお話し〕
1980年代初めの頃だったと思う。当時私は学生で山とスキーの店「らくざん」でアルバイトをしていた。その冬、「らくざん」の社長 中村重行氏(当時登攀倶楽部京都顧問)より「としぼう、西穂に行かへんか!」との話。社長直々の頼みを断るわけにはいかない。また、私には中学3年の春休み、西穂をめざしたものの独標で敗退した苦い経験もあった。意欲満々ではなかったが同意する。社長は私が運転できると思っていたようだ。道中運転を交代して欲しいとの言葉に運転免許がないことを伝えると詐欺にあったような表情をした。新穂高からケーブルで行く。そこから山稜の西穂山荘へ。分かっていたことだがケーブルの終点から西穂山荘までは結構ある。心構えのせいでもあるがラッセルがきつい。西穂山荘の入口付近でテントを張る。最新試作品の某社ゴアテックス製テントである。市場には出ていない。「ははーん」ここに来て私はこの山行の目的を理解した。社長はこのテントの居心地を試したかったのだ。実際、ゴアテックスのテントは快適であった。普通、冬のテントの中でコンロを使用するとテントの内側が濡れ、水分が滴り落ちる。ゴアテックステントはそれでも乾いている。コンロを使用しながらテントにもたれることができる画期的なものだ。ただ、修正すべき問題点もある。テントの底のシート(グランドシート)面がだぶついている。社長は某社にこのことを指摘するのだろう。さておき、テントを張って当日と二日目は風雪のため快適なテントで過ごした。社長は下戸。タバコは吸わない。但し、山のこと、店の経営のことなどで話は満開となる。ゴアテックスでも煙と臭いは排出しない。私はテントから頭を出して煙を吐きながら社長と話をする。持ってきたウイスキーが切れたので西穂山荘に「トリスのポケット瓶」を買いに行った。4回目であったろうか「品切れ」と言われた。今でも社長は何かと人に吹聴する。「西穂山荘のアルコールを飲み干した男」と。ゴアテックステントの快適性は分かった。風雪もおさまり西穂山頂へ・・・。独標に着く。そこから西穂稜線には急な下降がある。アンザイレンして稜線伝いに西穂へ進もうとする。3mほど下る。そこで社長の一言。「としぼう、やめとこうや・・・」、私「そやなぁ~ 今更西穂の頂上立っても男上がれへんし・・・」 数々の遠征を経験し隊長を努めた社長の言葉に従う。またもや西穂は遠かった。西穂の頂上は私にとって永遠未踏の「頂」である。※当時「らくざん」社長に対して登攀倶楽部員は「マスター」、私は登攀倶楽部入会当時、最年少であったことから「としぼう」と呼ばれていた。

〔暗闇の懸垂下降〕
暗闇の中、いつ着くとは予測できない懸垂下降を繰り返した経験がある。黒部奥鐘山西壁と明星山南壁である。無論どちらも想定外であった。普通懸垂下降の場合、逆Uの字にザイルをピンに通す。40mザイルで40m下降するには当然2本のザイルを結びつなぐ。その結び目が支点より右か左かを決定する。支点より下のザイルを引っ張れば支点に引っかかることなく回収できる。これが同じメーカーで同色のザイルであったらやっかいだ。下降した後、どちらのザイルを引っ張れば回収できるか分からない。従って基本的にザイルは色違いを使用する。ピンを支点に逆Uの字にするが、多くの場合、末端を結びOの字にする。そうすれば、結び目が懸垂器に引っかかりザイルが懸垂器をすり抜けることはない。安全である。ただ、長い壁の下降となるとそうは行かない。ザイル末端の結び目が壁やブッシュに引っかかる。また、迅速にするため上のザイルを回収すると同時に次の支点にザイルをセットする。そのためには末端を結ばないのである。つまり、どちらか一方のザイルの末端を認識できず懸垂器がザイルを通過すれば身体は自然落下する。ヘッドランプでは40m下のザイルの末端を見ることができない。そこにテラスや十分なスタンスがあるかも分からない。奥鐘、明星とも経験的に私が実質上のリーダーであった。暗闇の中、ハング帯を越え身体が宙に浮く。ザイルの末端が壁に接しているかどうかは確認できない。5m程度の視界の中、ザイルを信じて下降する。河原の流水音が大きくなる。ここが終着点か? 懸垂器を引っ張り歩き、確認する。テラスであった。まだ地面は遠い。続いて懸垂下降を繰り返す。そして着地。目線に川が見える。正真正銘ここは河原である。これ以上の下はない。と思ったとき生きた心地を取り戻せた。

〔ごく一部の青春〕
当時、登攀は私の青春すべてであった。他人に認めてもらうつもりで登ったわけでもない。しかし、この年になって思う。山ガールや高齢者登山。登った方に聞く。「横尾から涸沢に入るとき左側に見える垂直の壁を眺めた?」 「槍沢に入る前、右側に大きな壁を見なかった?」誰も見ていない。存在すら知らない。「なんで?」あんな大きな壁を見落とすのん!? 少し悔しい。自己満足でやってきたつもりであったが屏風岩に気がつかず涸沢に辿り着く登山者。黒部林道でも奥鐘山西壁は蔦のからまる単なる「いわかべ」であろう。今の山はNHKの「にっぽん百名山」がすべて。なんだろう。・・・ 皮肉と誤解されたら申し訳ない。時代を感ずる故の表現です。ご了承をお願い。

〔ボルダーリング〕
1980年代の初めであったと思う。「ボルダーリング」が流行った。六甲山系の北山公園や荒地山に通う。やれば結構面白い。握力、腕力ともにパッンパン。ワイワイガヤガヤ言いながら登り試しては落ちる。終わってみれば缶ジュースも空けられない。何回か行く。面白いが充実感がない。何より落ちることに慣れてしまった。「落ちたら死ぬ」これがクライミングの醍醐味であり、この緊張感が魅力である。だから私の前歯もブッシュを噛み削れたのだ。不意の事故はともかくとして、力尽きて壁から身体を離すことは考えられない。しかし、ボルダーのおかげで落ち癖がついてしまった。力尽きれば落ちるのもやむを得ず。こんなことでは本チャンは登れない。落ちて元々ではない。失敗しても生きて帰る。これが本チャンである。この切り替えがうまくできなくなってしまった。いくら小さなゲレンデ(壁)でも確保をするパートナーに「ほんな、頼むは・・・」と言って登りだすのが私の山であったはずだ。

〔登攀倶楽部-2〕
私は登攀倶楽部岐阜と京都の会報をこのブログにアップしている。当時私は京都会員であった。岐阜も基本的には同じ形態の組織と思っていた。ところが全然違っていた。京都は「新人お断り&女人禁制」の組織。岐阜はそうではない。女性の記録も岐阜の会報 ”攀” には掲載されている。京都にはなかったほのぼのとした報告である。どちらが良いとか悪いとかではない。同名の倶楽部でこの違いがあることが素晴らしい。根っこは同じでもそれぞれ進化は環境によって分かれる。系統樹の如く。かつて京都に於いて、登攀倶楽部存続の有無を議題にした会合があった。時代と共に精鋭的なクライマーが居なくなった。そのときである。或る創設メンバーの言葉「行く者(もん)がおらんようになったらなくなってもしょうがない。もともと登攀倶楽部は山岳会やないんやから解散はない。自然消滅でええんとちがうか?」
登る者がいなくなったら自然消滅。究極の「組織」論である。”おち” ではあるがそこで誰かが言った「ここに来たのは一体何者?」********** 自然消滅もあれば自然発生もある。

〔ダンロップテント〕
1971年の夏、中学三年の夏休み単独で ”燕~槍~北穂~奥穂~前穂~岳沢” に行った。いわゆる「表銀座から槍穂縦走」である。後半の槍穂縦走間で大庭(おおば)さんと言う九州の山岳会の方と知り合いになる。大庭さんはクライマーでたまたまゆっくりと一人縦走に来たらしい。まだ、岩登りを経験したことのない私にとって彼の話は新鮮であった。一見、遠くから見ると垂直の岩壁でも実際に登ってみれば数人がダンスを踊ることができるテラスがあること。冬の壁では着ぶくれして何をするにも大変なことなど。そんな彼が奥穂のテン場に着いたときザックから奇妙なテントを取り出し、あっと言う間の早業で張ってしまった。中に入る。冬期用のフード型の出入口がある。経験のない私はフードのたるみスペースを荷物置き場と勘違いした、が彼は何も言わない。紅茶用の湯を沸かしながら「実はこのテント試作品で借りてきたもの」とのこと。そばを行き交う登山者が珍しいのだろう。中を覗きに来る。当然である。当時のテントには支柱があり、固定する2点の細紐が必要であった。細紐の末端をペグや岩に結ぶ等の方法で固定する。どちらにしても地球につなぐ。ところがこのテントは自立式だ。画期的テント。今から察するに住友ゴム(今のダンロップ)テントの試作品であろう。翌日、大庭氏と同行する。少しルートを外れて岩登りの練習を手ほどきして頂く。3点確保である。重太郎新道を降りて岳沢ヒュッテに着く。ザックを置いて休憩。そこで岳沢を指さし「この沢詰めて稜線までどれくらいで登れる自信がある?」 全く私には想像できなかった。「6時間くらい?」と応える。大庭氏「3時間で登らなければダメ」 残念ながら未だに岳沢を詰めたことはない。ただ、このプロフェッショナルな言葉が印象的であった。以後、余談ではあるが岳沢ヒュッテで某社製の登山靴は潰れてしまった。靴底が剥がれてしまったのだ。ビムラムではない。その上層だ。左右である。私は岳沢ヒュッテから河童橋まで約6㌔の道のりを靴下のまま歩いた。ラケットやバットが折れても人は死なない。山靴が破損すれば致命的である。
※当時、私は登山用具のことは全く無知であった。山靴も商店街のスポーツ用品店で購入したものだ。

〔山靴〕
岳沢ヒュッテで山靴が潰れ、上高地の河童橋までの約6㎞を靴下で歩いたことは先のブログに記したとおりである。それでは老舗の山靴メーカーは安全なのか? 私はロッジ・青穂山荘・京都らくざん等の登山用具店で働いた。構造的に革製山靴の種類には2種類ある。靴の甲の部分が2枚になっており靴紐を絞めると2枚の革が閉まる2重革型、もう一つは甲の部分がAの字に割れており絞めると甲のAの字の巾が狭くなり全体にフィットしていくAの字革型である。どちらにしても靴紐を左右に引っかける金具がある「D環」と言う。当時、D環に靴紐を絡ます際、8の字にするクライマーもいたがそれを真似して大変な目に遭った。8の字に絡ませると靴紐は緩まないが紐がD環の角に擦れて切れる。話を戻す。2重革型は絞めると同時に上下の革の摩擦も強くなり絞まりにくくなる。冬期、靴が凍っている場合は靴を履くだけで一苦労だ。Aの字革型は前者に比べれば絞まり具合は良い。但しAの字の左右を均等に絞めなければ甲に対し均等に力がかからない。履くとき「左右の絞め癖」の付け様が重要だ。どちらにしてもD環を最大限絞めた場合も「まだ絞めることができる」あそびが必要だ。ところが、ヨーロッパの山靴老舗メーカーの軽登山靴にはその「あそび」がない。絞めると同時にD環が接触。これ以上絞めることができない。日本人の足は扁平足で甲高との推定か? 手入れを繰り返し靴油を塗ると更に革は伸びて足が靴の中で不安定になる。当時私は社長に進言してこの靴の入荷を中止した。大きめの山靴を勧めるとクレームはない。但し、本当にマッチした山靴を勧めるとクレームが後々ある。適当に大きめの靴を与えておけば文句はでないであろうとの思いか? これから山を始めようと思っている方々へ。靴の試し履きの際「ぴったりですよ」の言葉には要注意。「大きすぎます」と応える店員さんは信頼に価する。特に店内に在庫が無い場合、悪質な店員は無理して在庫のあるサイズを勧める。「注文しますので待ってください」と話す店員は大丈夫。夏の縦走では厚めと薄めの靴下を履き指を縮めず、つま先で蹴って指を伸ばしたままで靴の先端までもっていき、かかとと靴の隙間が人指し指1本半弱。これがベストだ。このとき大抵の場合、指先を少し折って縮めてしまう。これが後々の後悔となる。但し、履いて歩く内に靴底は沈み巾は広がるものだ。

〔山靴その2〕
私の知る限り「山靴」は興味深い。フランス・イタリア・ドイツ、そして日本製。それぞれの国民性を反映しているような気がする。フランス製は軽く機能重視。但し、革は薄めである。イタリア製、万能だが特徴がない。軽登山には適しているが重登山となると不安が残る。ドイツ製はとにかく重い。革・造りと共に良質であるが、これにアイゼン(クランポン)を装着すると鉄下駄の如くである。日本製? これには面白い逸話がある。私の師匠こと浜野氏がラドックⅡ峰遠征を前にして京都の山靴専門店Mに特注した。インナーブーツ式のW登山靴である。足形をとる。完成は○○日と聞いたのでその日に行く。店主のMさんがでてきた。完成した靴を試し履きする。右靴を履く。次は左、ところが左の靴がでてこない。M店主曰く「左は気にくわんかったので捨てしもた。来週もう一遍来いや!」とのこと。この話を聞き、私は大笑いした。師匠の浜野氏は大阪の八尾に住んでいた。京都へはいつでも気軽に行ける距離ではない。勝手なオッサン? されど、今思うにこのMオッサンは大した職人だ。今、こんな靴職人は日本に何人居るのだろう。

〔水/Water〕
最近、聞くところによると携帯食料は随分良くなったようだ。アルファ米も昔に比べて相当美味しくなったらしい。フリーズドライなどインスタント食品も技術の向上とともにかなり進歩したようである。残る問題は「水」即ち「water」だ。沢登りと違い、壁の登攀においては「水」を途中で補給することができない。殆どの場合、下山した私の水筒には水は残っていなかった。山小屋のない縦走も同じだろう。2L必要なら2L、3Lなら3Lの水をザックで背負うしかない。リットル=キログラムである。フリーズドライ食品は水を加えることによって元に戻る。その水がインスタントで再生可能なら画期的である。水素電池は使用後に水を排出するらしい。水素電池コンロができればコンロ使用と同時に水ができる。とは言え、100CCの水を生むために100キログラムの水素電池コンロを運ぶのでは意味がない。粉末水素(A)と粉末酸素(B)を混ぜてシェイクすればできる「魔法の水」の出現は期待できない。少なくとも我々が生きている間には。

〔幕岩 大町の宿〕
唐沢岳幕岩の取付点付近に「大町の宿」がある。「宿」とは言っても岩小屋だ。幕岩のルート開拓時に「大町山岳会」がベースに使ったのだろう。広さは10畳以上。何よりありがたいのはその中央に水が流れている。天然の水道付き岩小屋だ。水くみに行く必要はない。クライマーにとっては天国のような所だ。そう思いつつふと頭をよぎった。「岩の根元から湧き水が出ると言うことはその地盤が侵食されていると言うことか?」岩小屋を形作っている天井岩は数十トン以上だ。私は気休めに直径10センチほどの丸太を支えに挟んだ。意味のない行為である。幕岩、「大町の宿」は今でも健在か?知る人ががあれば教えて頂きたい。

〔チンネ〕
剣は不思議な山域だ。穂高とは違って特に冬は入山に時間を要する。夏は滝谷と違い開放感がある。長治郎雪渓を詰めて池ノ谷ガリーを下る。三の窓に辿り着く。池ノ谷ガリーと三の窓からの展望があまり違うせいか、タイムスリップに飛び込んだような気持ちになる。チンネを取りまくシュルンドを避けてルートを探す。中央チムニーと間違って左方ルンゼに取り付いた。次はAバンドBクラック?Aバンドがやけに広い。単なる緩傾斜帯だ。しかし疑わずBクラック。Bクラックもクラックとは言うものの広すぎる。そこを登ってはじめて間違いに気付く。確信して登った中央チムニーは左方ルンゼでありBクラックは中央チムニーであった。おかげで10ピッチ近いクライミングを楽しませてもらった。チンネの終了点には十字架がある。ガスにぼやけたそれはマッターホルンの頂上にでもたどり着いたかと思わせる幻想的な風景であった。

〔ニコニコホールド〕
クライミングに於いて最大の幸せは「ニコニコ」に逢ったときだ。ニコニコとはニコニコホールド、指の第一関節以上の鋭角ホールドである。これはありがたい。何でもできる気持ちになる。思わずニコニコ。嬉しいかな。長いピッチの一瞬の喜びである。人生に於いてニコニコホールド、無ければしょうがないが、あったら見逃すまいと思うのであります。

〔かくねざと〕
鹿島槍北壁の根元に「カクネザト」と言う地名がある。「カクネザト」=「隠れ里」」。昔、源氏の制圧を避けて平家の落ち武者が暮らした所らしい。ところが今、冬は雪崩の巣である。生活など到底考えられない。クライマーも足早に通過する。平安後期~鎌倉前期は比較的温暖でカクネザト周辺、いわゆる2300mの山間谷部でも生活できたらしい。夏、暑ければ「温暖化」 冬、寒ければ「異常気象」たかが温度の計測が始まって100年前後である。一喜一憂するのは如何なものか。地球的規模で見ると数千万年の周期でN極とS極は入れ替わっているらしい。

〔サツキマスとサクラマス〕
サクラマスはヤマメの降海型。サツキマスはアマゴの降海型。アメマスはイワナの降海型。その生息域については棲み分けがあるがここでは省略。さてこれら、ほとんどの個体は川で一生を終えるが、川の流れに逆らえなかった個体が海に落ち豊富な餌を得て超巨大化。「マス」となる。彼らはやがて元の川に戻って産卵する。面白いのは降海する個体は川の流れに逆らえず、海に落ちた「体力の無い個体」。いわゆる落第組。その劣等生が或日突然、数倍の大きさになってかつての優等生の前に立ちはだかる。何が功を奏するかわからない自然界。

〔黒部のトロッコ電車〕
秋はクライミングの最高のシーズン。11月には連休が2回ある。前半は奥鐘山西壁、後半は明星山南壁。真夏の奥鐘は暑さもさることながら山ダニの恐怖。喰らいついた山ダニを強引に剥がすと頭が残る。帰路の温泉でサルのノミ取りよろしく背中の山ダニ取りを二人仲良く交互に繰り返したとの話は盛夏の奥鐘経験者からよく聞いた。だから11月と決めていた。トロッコ電車の終着点、「欅平」から奥鐘西壁の取付点へは改札口を通らない。トロッコ電車を降りてそのまま線路伝いに行く。トンネルを抜けると黒部川に降りる急な鉄の階段。それを降りて川を遡行する。当時、壁を登ることしか頭になかった。今思うと素晴らしい景色であった。黒部川と紅葉。さらに尾根の上部には白い雪。何故あのとき、ここでしか見ることができない絶景をもっと楽しめなかったのか? 己の若さ故。了見の狭さを悔いる。精神的に「未熟」であった。あの頃の技術・体力と体型、そして今の感性が欲しい。

〔剣・八ツ峰とチンネ〕
以前、剣Ⅵ峰Dフェース久留米大ルートから池ノ谷ガリーを経由してチンネ左方ルンゼ~中央チムニー~aバンド・bクラックを攀ったことがある。左方ルンゼを中央チムニーと間違えた。たから中央チムニーをbクラックと間違えた。bクラックを越えて初めてルートの間違いに気づいたのでした。おかげで10ピッチ以上の登攀が楽しめた。ただ、あのとき下りた池ノ谷ガリーは陰湿で長く感じた。稜線から稜線のコルにたどり着くのに何故こんなに下りるのか?googleアースはすべてを説明してくれる。しかし、チンネって小さい壁やなぁ!
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〔テレビの箱〕
私と師匠の浜野氏はⅥ峰Dフェースを攀り、八ツ峰を主稜線に向かって縦走していた。ガスで廻は暗く視界も悪い。そのとき、20インチ中型テレビほどの段ボール箱を背負子に担ぎ足早に下山する登山者とすれ違った。私はそのまますれ違ったが、後を歩いていた師匠が足を止め彼と話している。しばらくして師匠が私に追いつき話してくれた。「あの箱には折りたたんだ遺体が入ってるんやって・・・」私は驚いた。「死んだらあんな小さい箱に入れることができるんや!」今から思えば雪渓の中でミイラ化していたので折りたたんだのであろう。以後、山で窮地に追い込まれる都度、あの箱が私の脳裏に浮かぶ。「あんな小さな箱に入りたくない!」いつもそう思い窮地を乗り越えた。
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by touhanclub | 2013-01-02 02:50 | 仲村利彦の部屋