往年のクライマー(元登攀倶楽部の会員)によるブログです。


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<   2016年 01月 ( 12 )   > この月の画像一覧

屏風

あのころは攀るだけのでした。ルート図さえあればどうでもよかったのです。
しかし、吉尾氏は早くも次の時代の懸念と予感。半世紀以上昔に。RCCⅡの初版本を入手以来、「日本の岩登りの歴史」にハマりました。興味のある方はお付き合いください。OCR変換なのでチェックはしておりますが誤植がありましたら堪忍&ご免でお許しを。

屏風岩 <吉尾 弘>
涸沢の行き帰りに見あげる屏風の偉容は、今ではすでに先駆者の昔から私たちの時代まで、クライマーの胸に変らないある種のおののきを感じさせる何かをもっている。かつては選ばれたるもののみに許されていた屏風の北壁、第一ルンゼ、第ニルンゼ、慶応稜、みな"新たな垂直の時代"の始まるまでは、岩登りを志ざす若者たちの最高の目標の一つだった。伊藤洋平氏による北壁の積雪期初登攀、その偉業がいかに後世のクライマー勇気づけたか、小川登喜男氏の第一ルンゼの登攀が、次の世代をいかに敬服させたか、みな屏風岩がもつそのなにものかによるためだった。
目本が敗戦を境として、絶対主義的天皇制国家から、まがりなりにも民主主義国に変貌しようとしていた時代、屏風中央カンテを初登肇した石岡繁雄先生と中学生たちの記録を知って、生活苦に追われて山どころではなかった登山愛好者たちはいかに元気づけられたろうか・・・。
屏風岩、ここには人間の可能性の限界、登攀能力の限界があるものと信じられていた。ゆえにアルピニズムに占めるその位置は大きく、岩登りに楽しみだけを求めるムード登山家の一群には、この壁は恐れられこそすれ決して好かれてはいなかった。
一九五〇年時代の後半に到ると、積雪期登攀が一般化されて、穂高の奥又、明神、あるいは一ノ倉沢にと、今まで考えられなかったような実践が傾注された。その波が当然屏風岩にも及び、北壁の第二登、中央カンテの積雪期初登攀、またこの中央カンテをアプローチとする奥又白のアタックというような連続登攀が、はやくも松本竜雄氏等によって実践されている。
一九六〇年代には、屏風中央壁、東壁、東稜、さらに東壁鵬翔ルート、緑ルート等、陸続と垂直のルートが開拓ざれた。まさに驚嘆すべき本邦クライミングの前進のいぶきが起ってきた。
だがある人は言った。屏風の東壁あたりに同じようなルートが何本も開かれるのはおかしいのではないか、と。またある人は、フリークライミングで行きづまったとき初めて人工ピッチが生まれるべきではないのか、と。さらにある人は、屏風岩、あれは崖登りでしかないのではないか、と。
しかし現実はどうなのか。アルピニズムの歴史から屏風の記録が抹殺できるのか。できるわけがない。本邦の数少ない岩の修練揚としても、北尾根の末端にあたるその位置から考えても・・・。
ある種の現代クライマーは、屏風岩こそ奥又に到るアプローチとして、さらに滝谷にはいるアプローチとして、己を鍛える道揚の一つとしているのだ。
より困難を追求する行為=実践クライミング、これこそアルピニズムを前進させる唯一の母胎に他ならない。やがていつの日にか屏風岩は、ヒマラヤにおける岩壁登高にそなえる科学的・力学的なトレーニングの場として、また機械クライミングの実験揚として、アルピニズムの歴史に・より大きな貢献をする日が必ずくるであろう。

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by touhanclub | 2016-01-07 02:29 | 仲村利彦の部屋 (B)

滝谷

滝谷の閉塞感は格別です。右を見ても左を見ても壁。
寝転んで天空を仰いでも視野の一部に茶色の岩肌が眼球に映ります。剣や北岳の開放感に比べて暗い。「岩登りの殿堂=滝谷」 第一尾根を登りに行ったときP2フランケの美しさに圧倒されました。「こっち行きたい」と思いましたが、またの機会にと予定どおり一尾根に取付きました。結局、またの機会は訪れませんでした。滝谷の開拓時に生きたクライマーはしあわせだと思います。あっちワクワク。こっちもワクワク。五万分の一地図、毛虫探し以前の時代です。

滝 谷 <望月 亮>
稜線に立つと、飛騨の風がひょうひょうと吹きあげていた。頂は濃い霧の中に隠されていた。薄着の肌からみるみる体温が掠められていった。唇は色を喪い、歯が鳴った。陽の光がしきりと懐かしく思えた。振りかえる遙か下に、澗沢の天幕群が鮮かに見えた。雲は頂稜の上のみをおおい、信州側の下では相変らず強い陽射が照りつけている。そこにはむせかえる草いきれが立ちこめ、天幕は蒸風呂のように熱せられているに違いない。だが、その熱気もここまでは届かなかった。
風はさらに強く吹いた。だが風も、頂稜にまつわる雲を吹き払うことはできなかった。それどころか雲はいっそうその厚みを増し、霧のヴェールは私達を惑わした。岩壁はとほうもなく大きく見え、山は距離と空間を無限に拡大する。どこかで、低く鈍い落石の音が谷を転り落ちていった。
「とにかく降りてみよう・・・」
身体の芯にしみとおる寒さに追われて、底の見えない谷を飛騨側に下りはじめる。狭く急な、そして脆弱な岩溝を、奈落に足を踏み入れるように、恐る恐るずり落ちる。小さく鋭い羽音を残して落石が耳をかすめていったその先に、銀の糸のように蒲田川の流れがちらと光った。
私達は岩壁の下に立つ。誰が積んだとも知れぬケルンが、付近にある石のすべてを使って築かれている。そのほかにはこのあたりに石はない。
《誰かが登ろうとしたんだな・・・》
私は未登の岩壁を仰ぐ。人に登られたことのない壁はむしろひそやかに立っている。私達はその壁を登り始める。《未登の岩壁》には充実がある。たとえそれが不安と焦燥と背中合わせの充実にしろ、そこには隙間のない私がいる。そして私達は緊張と小さな希望にささえられている。
"ここはまだ誰も登った者がない・・・“
このわずかなことが私達を喜ばせ、小さな誇りを持たせる。一つ一つの手懸りや足場を踏みながら、岩壁に手と足の跡を染みこませようとしている私。雨にも雪にも洗い流されることのない足跡--- その一つ一つに思いをこめて攀じる。私はそれを忘れることのないように覚えこもうとする。この壁は私達のものになろうとしている。そして私を勇気づける。
ようやくにして霧の中から仲間の顔がでる。お互いに笑顔をかわそうともしないで、また霧の中での孤独な時間の繰返しがつづく。一歩一歩標高を掠めて成功がだんだん手近い所に降りてくる。
突然、私達をささえていたものが崩れ落ちる。希望が喪われると、不安と蕉燥は平衡を破って一方的に膨れあがる。私は叫びだしそうになるのをこらえる。
下降が開始される。一本のハーケンと一本の捨縄を惜しんで、私達は非常な危険を冒す。ハーケンと捨縄が惜しいのではない。そうすることが当然のように、ふだんの習慣・・・貧しさ・・・がそうさせている。ようやく岩壁の下に降り立って私達は息をつく。未登の壁はむしろひそやかに聳えている。潰れた小さなヒロイズム。私達はザイルを巻き、濡れ猫のように道に向って歩きはじめる。
風の中に霧はあいかわらずひょうひょうと吹き上げ、頂稜の雲はさらに重く厚みをましていった。



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by touhanclub | 2016-01-06 02:14 | 仲村利彦の部屋 (B)