往年のクライマー(元登攀倶楽部の会員)によるブログです。
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山と当時のひととの出会い (3)
〔クレバスに消えた女性隊員・・・ 私 ここで死ぬからぁ-〕
もし、あなたならこの言葉 言えるだろうか? 1981年 私は学生でした。この事故を目の当たりにしてからだが震えました。彼女は神になった。そう思う。
京都山岳会登山隊の白水ミツ子隊員が、第一キャンプからベースキャンブへ下山中、ボゴダ氷河のヒドン・クレバスに転落、死亡したのは、一九八一年六月十日のことであった。
もちろん、この日、死亡がはっきりと確認されたわけではなく、救出が困難なままに、氷河の中に見捨てざるを得なかったのである。白水隊員は救出の断念を自ら望んだが、暗黒の氷の割れ目の中で、一条の生の光に望みを託しながら最後まで死とたたかっていたとすれば、その死亡日付はあるいは半日か一日、変更されることとなるわけである。
記録――六月十日午前十一時二十分、ボゴダ峰第一キャンプから三十分ほど下ったアイスフォール帯直下の広い雪原状の氷河上で白水隊員はクレバスに転落した。
直ちに第一キャンプに緊急連絡され、第二キャンプからかけつけた救助隊員が現場に到着したのは十三時十分。彼女の生存は確認された。宮川隊員がクレバスへの下降を試みる。
入口は八十センチくらいの人間がやっとひとりくぐれるくらいの氷の割れ目だが、中に入るにしたがってさらに狭くなり、上から四メートルのところで少し屈曲して幅は五十センチくらい。そこで下の方にひっかかっているザックが見えた。しかしそこからはさらに狭くなり、靴を真っすぐにしては入れず、アイゼンの爪が効かない。ザイルにぶらさがったままの状態で、少しずつ降ろしてもらい、ようやくザックに達する。「大丈夫かあ」期待をこめてザックに手をかけるが、その下に白水さんはいない。声をかけると、応答はあった。が、まだはるか下の方である。
そこからは氷の壁はまた少し屈曲し、真っ暗で、さらに狭くてそれ以上は下降できない。やむなくザイルの端にカラビナとへッドランプをつけて降ろす。一○メートル(上からは二○メートル)降ろしたところで彼女に達したようだが、彼女自身どうにもザイルをつかまえることが出来ないのか、ザイルはかすかな手ごたえを感じるが、そのまま空しく上がってくる。
そういう作業を何度も「しっかりしろ」と大声で彼女に呼びかけながらやっている時に、
「宮川さぁーん、私ここで死ぬからあー」
「宮川さぁーん、奥さんも子供もいるからー、あぶないからぁー、もういいよぉー」という声。かなり弱った声だったが、叫ぶような声だった。彼女自身でもう駄目と判断してのことだろう。
まったくやり切れない気持ちだった。声が聞こえてくるのに助けられない。くやしさが全身を貫く。
十六時、彼女の声はまったく聞こえなくなった。カメラ助手の新谷隊員、そして当日頂上アタックした山田、大野両隊員もクレバスに降りた。しかし誰も宮川隊員が降りた位置より下には行けず、二十一時ついに救助作業を打ち切った。(京都山岳会隊・宮川清明隊員の手記)
白水さんは二十九歳、独身だった。
「みちくさ新聞」3号掲載
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9003/books21.htm
http://www.akiya-yutaka.com/kurebusuni.html
〔登攀倶楽部〕
私は今、登攀倶楽部の旧会報をスキャンしブログUPをしている。その会報「攀No.2」の "座談会"「クラブを語る」を読んだ。すごい会である。確かに自由であった。月に一度の会合はパートナー選びの場であり、合宿など目標を一つにした集団山行の話は一切なかった。だから、登攀倶楽部「京都」では新人の入会はお断り。教えるより自分の山行重視であった。ここに行き着くまでに紆余曲折があったことを今更ながら知る今日この頃・・・
http://www.kangojuken.com/touhanclub/yojiru2scan-35.pdf
〔西穂山荘のウイスキーを全部飲み干した愚かなお話し〕
1980年代初めの頃だったと思う。当時私は学生で山とスキーの店「らくざん」でアルバイトをしていた。その冬、「らくざん」の社長 中村重行氏(当時登攀倶楽部京都顧問)より「としぼう、西穂に行かへんか!」との話。社長直々の頼みを断るわけにはいかない。また、私には中学3年の春休み、西穂をめざしたものの独標で敗退した苦い経験もあった。意欲満々ではなかったが同意する。社長は私が運転できると思っていたようだ。道中運転を交代して欲しいとの言葉に運転免許がないことを伝えると詐欺にあったような表情をした。新穂高からケーブルで行く。そこから山稜の西穂山荘へ。分かっていたことだがケーブルの終点から西穂山荘までは結構ある。心構えのせいでもあるがラッセルがきつい。西穂山荘の入口付近でテントを張る。最新試作品の某社ゴアテックス製テントである。市場には出ていない。「ははーん」ここに来て私はこの山行の目的を理解した。社長はこのテントの居心地を試したかったのだ。実際、ゴアテックスのテントは快適であった。普通、冬のテントの中でコンロを使用するとテントの内側が濡れ、水分が滴り落ちる。ゴアテックステントはそれでも乾いている。コンロを使用しながらテントにもたれることができる画期的なものだ。ただ、修正すべき問題点もある。テントの底のシート(グランドシート)面がだぶついている。社長は某社にこのことを指摘するのだろう。さておき、テントを張って当日と二日目は風雪のため快適なテントで過ごした。社長は下戸。タバコは吸わない。但し、山のこと、店の経営のことなどで話は満開となる。ゴアテックスでも煙と臭いは排出しない。私はテントから頭を出して煙を吐きながら社長と話をする。持ってきたウイスキーが切れたので西穂山荘に「トリスのポケット瓶」を買いに行った。4回目であったろうか「品切れ」と言われた。今でも社長は何かと人に吹聴する。「西穂山荘のアルコールを飲み干した男」と。ゴアテックステントの快適性は分かった。風雪もおさまり西穂山頂へ・・・。独標に着く。そこから西穂稜線には急な下降がある。アンザイレンして稜線伝いに西穂へ進もうとする。3mほど下る。そこで社長の一言。「としぼう、やめとこうや・・・」、私「そやなぁ~ 今更西穂の頂上立っても男上がれへんし・・・」 数々の遠征を経験し隊長を努めた社長の言葉に従う。またもや西穂は遠かった。西穂の頂上は私にとって永遠未踏の「頂」である。※当時「らくざん」社長に対して登攀倶楽部員は「マスター」、私は登攀倶楽部入会当時、最年少であったことから「としぼう」と呼ばれていた。
〔暗闇の懸垂下降〕
暗闇の中、いつ着くとは予測できない懸垂下降を繰り返した経験がある。黒部奥鐘山西壁と明星山南壁である。無論どちらも想定外であった。普通懸垂下降の場合、逆Uの字にザイルをピンに通す。40mザイルで40m下降するには当然2本のザイルを結びつなぐ。その結び目が支点より右か左かを決定する。支点より下のザイルを引っ張れば支点に引っかかることなく回収できる。これが同じメーカーで同色のザイルであったらやっかいだ。下降した後、どちらのザイルを引っ張れば回収できるか分からない。従って基本的にザイルは色違いを使用する。ピンを支点に逆Uの字にするが、多くの場合、末端を結びOの字にする。そうすれば、結び目が懸垂器に引っかかりザイルが懸垂器をすり抜けることはない。安全である。ただ、長い壁の下降となるとそうは行かない。ザイル末端の結び目が壁やブッシュに引っかかる。また、迅速にするため上のザイルを回収すると同時に次の支点にザイルをセットする。そのためには末端を結ばないのである。つまり、どちらか一方のザイルの末端を認識できず懸垂器がザイルを通過すれば身体は自然落下する。ヘッドランプでは40m下のザイルの末端を見ることができない。そこにテラスや十分なスタンスがあるかも分からない。奥鐘、明星とも経験的に私が実質上のリーダーであった。暗闇の中、ハング帯を越え身体が宙に浮く。ザイルの末端が壁に接しているかどうかは確認できない。5m程度の視界の中、ザイルを信じて下降する。河原の流水音が大きくなる。ここが終着点か? 懸垂器を引っ張り歩き、確認する。テラスであった。まだ地面は遠い。続いて懸垂下降を繰り返す。そして着地。目線に川が見える。正真正銘ここは河原である。これ以上の下はない。と思ったとき生きた心地を取り戻せた。
〔ごく一部の青春〕
当時、登攀は私の青春すべてであった。他人に認めてもらうつもりで登ったわけでもない。しかし、この年になって思う。山ガールや高齢者登山。登った方に聞く。「横尾から涸沢に入るとき左側に見える垂直の壁を眺めた?」 「槍沢に入る前、右側に大きな壁を見なかった?」誰も見ていない。存在すら知らない。「なんで?」あんな大きな壁を見落とすのん!? 少し悔しい。自己満足でやってきたつもりであったが屏風岩に気がつかず涸沢に辿り着く登山者。黒部林道でも奥鐘山西壁は蔦のからまる単なる「いわかべ」であろう。今の山はNHKの「にっぽん百名山」がすべて。なんだろう。・・・ 皮肉と誤解されたら申し訳ない。時代を感ずる故の表現です。ご了承をお願い。
〔ボルダーリング〕
1980年代の初めであったと思う。「ボルダーリング」が流行った。六甲山系の北山公園や荒地山に通う。やれば結構面白い。握力、腕力ともにパッンパン。ワイワイガヤガヤ言いながら登り試しては落ちる。終わってみれば缶ジュースも空けられない。何回か行く。面白いが充実感がない。何より落ちることに慣れてしまった。「落ちたら死ぬ」これがクライミングの醍醐味であり、この緊張感が魅力である。だから私の前歯もブッシュを噛み削れたのだ。不意の事故はともかくとして、力尽きて壁から身体を離すことは考えられない。しかし、ボルダーのおかげで落ち癖がついてしまった。力尽きれば落ちるのもやむを得ず。こんなことでは本チャンは登れない。落ちて元々ではない。失敗しても生きて帰る。これが本チャンである。この切り替えがうまくできなくなってしまった。いくら小さなゲレンデ(壁)でも確保をするパートナーに「ほんな、頼むは・・・」と言って登りだすのが私の山であったはずだ。
〔登攀倶楽部-2〕
私は登攀倶楽部岐阜と京都の会報をこのブログにアップしている。当時私は京都会員であった。岐阜も基本的には同じ形態の組織と思っていた。ところが全然違っていた。京都は「新人お断り&女人禁制」の組織。岐阜はそうではない。女性の記録も岐阜の会報 ”攀” には掲載されている。京都にはなかったほのぼのとした報告である。どちらが良いとか悪いとかではない。同名の倶楽部でこの違いがあることが素晴らしい。根っこは同じでもそれぞれ進化は環境によって分かれる。系統樹の如く。かつて京都に於いて、登攀倶楽部存続の有無を議題にした会合があった。時代と共に精鋭的なクライマーが居なくなった。そのときである。或る創設メンバーの言葉「行く者(もん)がおらんようになったらなくなってもしょうがない。もともと登攀倶楽部は山岳会やないんやから解散はない。自然消滅でええんとちがうか?」
登る者がいなくなったら自然消滅。究極の「組織」論である。”おち” ではあるがそこで誰かが言った「ここに来たのは一体何者?」********** 自然消滅もあれば自然発生もある。
〔ダンロップテント〕
1971年の夏、中学三年の夏休み単独で ”燕~槍~北穂~奥穂~前穂~岳沢” に行った。いわゆる「表銀座から槍穂縦走」である。後半の槍穂縦走間で大庭(おおば)さんと言う九州の山岳会の方と知り合いになる。大庭さんはクライマーでたまたまゆっくりと一人縦走に来たらしい。まだ、岩登りを経験したことのない私にとって彼の話は新鮮であった。一見、遠くから見ると垂直の岩壁でも実際に登ってみれば数人がダンスを踊ることができるテラスがあること。冬の壁では着ぶくれして何をするにも大変なことなど。そんな彼が奥穂のテン場に着いたときザックから奇妙なテントを取り出し、あっと言う間の早業で張ってしまった。中に入る。冬期用のフード型の出入口がある。経験のない私はフードのたるみスペースを荷物置き場と勘違いした、が彼は何も言わない。紅茶用の湯を沸かしながら「実はこのテント試作品で借りてきたもの」とのこと。そばを行き交う登山者が珍しいのだろう。中を覗きに来る。当然である。当時のテントには支柱があり、固定する2点の細紐が必要であった。細紐の末端をペグや岩に結ぶ等の方法で固定する。どちらにしても地球につなぐ。ところがこのテントは自立式だ。画期的テント。今から察するに住友ゴム(今のダンロップ)テントの試作品であろう。翌日、大庭氏と同行する。少しルートを外れて岩登りの練習を手ほどきして頂く。3点確保である。重太郎新道を降りて岳沢ヒュッテに着く。ザックを置いて休憩。そこで岳沢を指さし「この沢詰めて稜線までどれくらいで登れる自信がある?」 全く私には想像できなかった。「6時間くらい?」と応える。大庭氏「3時間で登らなければダメ」 残念ながら未だに岳沢を詰めたことはない。ただ、このプロフェッショナルな言葉が印象的であった。以後、余談ではあるが岳沢ヒュッテで某社製の登山靴は潰れてしまった。靴底が剥がれてしまったのだ。ビムラムではない。その上層だ。左右である。私は岳沢ヒュッテから河童橋まで約6㌔の道のりを靴下のまま歩いた。ラケットやバットが折れても人は死なない。山靴が破損すれば致命的である。
※当時、私は登山用具のことは全く無知であった。山靴も商店街のスポーツ用品店で購入したものだ。
〔山靴〕
岳沢ヒュッテで山靴が潰れ、上高地の河童橋までの約6㎞を靴下で歩いたことは先のブログに記したとおりである。それでは老舗の山靴メーカーは安全なのか? 私はロッジ・青穂山荘・京都らくざん等の登山用具店で働いた。構造的に革製山靴の種類には2種類ある。靴の甲の部分が2枚になっており靴紐を絞めると2枚の革が閉まる2重革型、もう一つは甲の部分がAの字に割れており絞めると甲のAの字の巾が狭くなり全体にフィットしていくAの字革型である。どちらにしても靴紐を左右に引っかける金具がある「D環」と言う。当時、D環に靴紐を絡ます際、8の字にするクライマーもいたがそれを真似して大変な目に遭った。8の字に絡ませると靴紐は緩まないが紐がD環の角に擦れて切れる。話を戻す。2重革型は絞めると同時に上下の革の摩擦も強くなり絞まりにくくなる。冬期、靴が凍っている場合は靴を履くだけで一苦労だ。Aの字革型は前者に比べれば絞まり具合は良い。但しAの字の左右を均等に絞めなければ甲に対し均等に力がかからない。履くとき「左右の絞め癖」の付け様が重要だ。どちらにしてもD環を最大限絞めた場合も「まだ絞めることができる」あそびが必要だ。ところが、ヨーロッパの山靴老舗メーカーの軽登山靴にはその「あそび」がない。絞めると同時にD環が接触。これ以上絞めることができない。日本人の足は扁平足で甲高との推定か? 手入れを繰り返し靴油を塗ると更に革は伸びて足が靴の中で不安定になる。当時私は社長に進言してこの靴の入荷を中止した。大きめの山靴を勧めるとクレームはない。但し、本当にマッチした山靴を勧めるとクレームが後々ある。適当に大きめの靴を与えておけば文句はでないであろうとの思いか? これから山を始めようと思っている方々へ。靴の試し履きの際「ぴったりですよ」の言葉には要注意。「大きすぎます」と応える店員さんは信頼に価する。特に店内に在庫が無い場合、悪質な店員は無理して在庫のあるサイズを勧める。「注文しますので待ってください」と話す店員は大丈夫。夏の縦走では厚めと薄めの靴下を履き指を縮めず、つま先で蹴って指を伸ばしたままで靴の先端までもっていき、かかとと靴の隙間が人指し指1本半弱。これがベストだ。このとき大抵の場合、指先を少し折って縮めてしまう。これが後々の後悔となる。但し、履いて歩く内に靴底は沈み巾は広がるものだ。
〔山靴その2〕
私の知る限り「山靴」は興味深い。フランス・イタリア・ドイツ、そして日本製。それぞれの国民性を反映しているような気がする。フランス製は軽く機能重視。但し、革は薄めである。イタリア製、万能だが特徴がない。軽登山には適しているが重登山となると不安が残る。ドイツ製はとにかく重い。革・造りと共に良質であるが、これにアイゼン(クランポン)を装着すると鉄下駄の如くである。日本製? これには面白い逸話がある。私の師匠こと浜野氏がラドックⅡ峰遠征を前にして京都の山靴専門店Mに特注した。インナーブーツ式のW登山靴である。足形をとる。完成は○○日と聞いたのでその日に行く。店主のMさんがでてきた。完成した靴を試し履きする。右靴を履く。次は左、ところが左の靴がでてこない。M店主曰く「左は気にくわんかったので捨てしもた。来週もう一遍来いや!」とのこと。この話を聞き、私は大笑いした。師匠の浜野氏は大阪の八尾に住んでいた。京都へはいつでも気軽に行ける距離ではない。勝手なオッサン? されど、今思うにこのMオッサンは大した職人だ。今、こんな靴職人は日本に何人居るのだろう。
〔水/Water〕
最近、聞くところによると携帯食料は随分良くなったようだ。アルファ米も昔に比べて相当美味しくなったらしい。フリーズドライなどインスタント食品も技術の向上とともにかなり進歩したようである。残る問題は「水」即ち「water」だ。沢登りと違い、壁の登攀においては「水」を途中で補給することができない。殆どの場合、下山した私の水筒には水は残っていなかった。山小屋のない縦走も同じだろう。2L必要なら2L、3Lなら3Lの水をザックで背負うしかない。リットル=キログラムである。フリーズドライ食品は水を加えることによって元に戻る。その水がインスタントで再生可能なら画期的である。水素電池は使用後に水を排出するらしい。水素電池コンロができればコンロ使用と同時に水ができる。とは言え、100CCの水を生むために100キログラムの水素電池コンロを運ぶのでは意味がない。粉末水素(A)と粉末酸素(B)を混ぜてシェイクすればできる「魔法の水」の出現は期待できない。少なくとも我々が生きている間には。
〔幕岩 大町の宿〕
唐沢岳幕岩の取付点付近に「大町の宿」がある。「宿」とは言っても岩小屋だ。幕岩のルート開拓時に「大町山岳会」がベースに使ったのだろう。広さは10畳以上。何よりありがたいのはその中央に水が流れている。天然の水道付き岩小屋だ。水くみに行く必要はない。クライマーにとっては天国のような所だ。そう思いつつふと頭をよぎった。「岩の根元から湧き水が出ると言うことはその地盤が侵食されていると言うことか?」岩小屋を形作っている天井岩は数十トン以上だ。私は気休めに直径10センチほどの丸太を支えに挟んだ。意味のない行為である。幕岩、「大町の宿」は今でも健在か?知る人ががあれば教えて頂きたい。
〔チンネ〕
剣は不思議な山域だ。穂高とは違って特に冬は入山に時間を要する。夏は滝谷と違い開放感がある。長治郎雪渓を詰めて池ノ谷ガリーを下る。三の窓に辿り着く。池ノ谷ガリーと三の窓からの展望があまり違うせいか、タイムスリップに飛び込んだような気持ちになる。チンネを取りまくシュルンドを避けてルートを探す。中央チムニーと間違って左方ルンゼに取り付いた。次はAバンドBクラック?Aバンドがやけに広い。単なる緩傾斜帯だ。しかし疑わずBクラック。Bクラックもクラックとは言うものの広すぎる。そこを登ってはじめて間違いに気付く。確信して登った中央チムニーは左方ルンゼでありBクラックは中央チムニーであった。おかげで10ピッチ近いクライミングを楽しませてもらった。チンネの終了点には十字架がある。ガスにぼやけたそれはマッターホルンの頂上にでもたどり着いたかと思わせる幻想的な風景であった。
〔ニコニコホールド〕
クライミングに於いて最大の幸せは「ニコニコ」に逢ったときだ。ニコニコとはニコニコホールド、指の第一関節以上の鋭角ホールドである。これはありがたい。何でもできる気持ちになる。思わずニコニコ。嬉しいかな。長いピッチの一瞬の喜びである。人生に於いてニコニコホールド、無ければしょうがないが、あったら見逃すまいと思うのであります。
〔かくねざと〕
鹿島槍北壁の根元に「カクネザト」と言う地名がある。「カクネザト」=「隠れ里」」。昔、源氏の制圧を避けて平家の落ち武者が暮らした所らしい。ところが今、冬は雪崩の巣である。生活など到底考えられない。クライマーも足早に通過する。平安後期~鎌倉前期は比較的温暖でカクネザト周辺、いわゆる2300mの山間谷部でも生活できたらしい。夏、暑ければ「温暖化」 冬、寒ければ「異常気象」たかが温度の計測が始まって100年前後である。一喜一憂するのは如何なものか。地球的規模で見ると数千万年の周期でN極とS極は入れ替わっているらしい。
〔サツキマスとサクラマス〕
サクラマスはヤマメの降海型。サツキマスはアマゴの降海型。アメマスはイワナの降海型。その生息域については棲み分けがあるがここでは省略。さてこれら、ほとんどの個体は川で一生を終えるが、川の流れに逆らえなかった個体が海に落ち豊富な餌を得て超巨大化。「マス」となる。彼らはやがて元の川に戻って産卵する。面白いのは降海する個体は川の流れに逆らえず、海に落ちた「体力の無い個体」。いわゆる落第組。その劣等生が或日突然、数倍の大きさになってかつての優等生の前に立ちはだかる。何が功を奏するかわからない自然界。
〔黒部のトロッコ電車〕
秋はクライミングの最高のシーズン。11月には連休が2回ある。前半は奥鐘山西壁、後半は明星山南壁。真夏の奥鐘は暑さもさることながら山ダニの恐怖。喰らいついた山ダニを強引に剥がすと頭が残る。帰路の温泉でサルのノミ取りよろしく背中の山ダニ取りを二人仲良く交互に繰り返したとの話は盛夏の奥鐘経験者からよく聞いた。だから11月と決めていた。トロッコ電車の終着点、「欅平」から奥鐘西壁の取付点へは改札口を通らない。トロッコ電車を降りてそのまま線路伝いに行く。トンネルを抜けると黒部川に降りる急な鉄の階段。それを降りて川を遡行する。当時、壁を登ることしか頭になかった。今思うと素晴らしい景色であった。黒部川と紅葉。さらに尾根の上部には白い雪。何故あのとき、ここでしか見ることができない絶景をもっと楽しめなかったのか? 己の若さ故。了見の狭さを悔いる。精神的に「未熟」であった。あの頃の技術・体力と体型、そして今の感性が欲しい。
〔剣・八ツ峰とチンネ〕
以前、剣Ⅵ峰Dフェース久留米大ルートから池ノ谷ガリーを経由してチンネ左方ルンゼ~中央チムニー~aバンド・bクラックを攀ったことがある。左方ルンゼを中央チムニーと間違えた。たから中央チムニーをbクラックと間違えた。bクラックを越えて初めてルートの間違いに気づいたのでした。おかげで10ピッチ以上の登攀が楽しめた。ただ、あのとき下りた池ノ谷ガリーは陰湿で長く感じた。稜線から稜線のコルにたどり着くのに何故こんなに下りるのか?googleアースはすべてを説明してくれる。しかし、チンネって小さい壁やなぁ!
〔テレビの箱〕
私と師匠の浜野氏はⅥ峰Dフェースを攀り、八ツ峰を主稜線に向かって縦走していた。ガスで廻は暗く視界も悪い。そのとき、20インチ中型テレビほどの段ボール箱を背負子に担ぎ足早に下山する登山者とすれ違った。私はそのまますれ違ったが、後を歩いていた師匠が足を止め彼と話している。しばらくして師匠が私に追いつき話してくれた。「あの箱には折りたたんだ遺体が入ってるんやって・・・」私は驚いた。「死んだらあんな小さい箱に入れることができるんや!」今から思えば雪渓の中でミイラ化していたので折りたたんだのであろう。以後、山で窮地に追い込まれる都度、あの箱が私の脳裏に浮かぶ。「あんな小さな箱に入りたくない!」いつもそう思い窮地を乗り越えた。
もし、あなたならこの言葉 言えるだろうか? 1981年 私は学生でした。この事故を目の当たりにしてからだが震えました。彼女は神になった。そう思う。
京都山岳会登山隊の白水ミツ子隊員が、第一キャンプからベースキャンブへ下山中、ボゴダ氷河のヒドン・クレバスに転落、死亡したのは、一九八一年六月十日のことであった。
もちろん、この日、死亡がはっきりと確認されたわけではなく、救出が困難なままに、氷河の中に見捨てざるを得なかったのである。白水隊員は救出の断念を自ら望んだが、暗黒の氷の割れ目の中で、一条の生の光に望みを託しながら最後まで死とたたかっていたとすれば、その死亡日付はあるいは半日か一日、変更されることとなるわけである。
記録――六月十日午前十一時二十分、ボゴダ峰第一キャンプから三十分ほど下ったアイスフォール帯直下の広い雪原状の氷河上で白水隊員はクレバスに転落した。
直ちに第一キャンプに緊急連絡され、第二キャンプからかけつけた救助隊員が現場に到着したのは十三時十分。彼女の生存は確認された。宮川隊員がクレバスへの下降を試みる。
入口は八十センチくらいの人間がやっとひとりくぐれるくらいの氷の割れ目だが、中に入るにしたがってさらに狭くなり、上から四メートルのところで少し屈曲して幅は五十センチくらい。そこで下の方にひっかかっているザックが見えた。しかしそこからはさらに狭くなり、靴を真っすぐにしては入れず、アイゼンの爪が効かない。ザイルにぶらさがったままの状態で、少しずつ降ろしてもらい、ようやくザックに達する。「大丈夫かあ」期待をこめてザックに手をかけるが、その下に白水さんはいない。声をかけると、応答はあった。が、まだはるか下の方である。
そこからは氷の壁はまた少し屈曲し、真っ暗で、さらに狭くてそれ以上は下降できない。やむなくザイルの端にカラビナとへッドランプをつけて降ろす。一○メートル(上からは二○メートル)降ろしたところで彼女に達したようだが、彼女自身どうにもザイルをつかまえることが出来ないのか、ザイルはかすかな手ごたえを感じるが、そのまま空しく上がってくる。
そういう作業を何度も「しっかりしろ」と大声で彼女に呼びかけながらやっている時に、
「宮川さぁーん、私ここで死ぬからあー」
「宮川さぁーん、奥さんも子供もいるからー、あぶないからぁー、もういいよぉー」という声。かなり弱った声だったが、叫ぶような声だった。彼女自身でもう駄目と判断してのことだろう。
まったくやり切れない気持ちだった。声が聞こえてくるのに助けられない。くやしさが全身を貫く。
十六時、彼女の声はまったく聞こえなくなった。カメラ助手の新谷隊員、そして当日頂上アタックした山田、大野両隊員もクレバスに降りた。しかし誰も宮川隊員が降りた位置より下には行けず、二十一時ついに救助作業を打ち切った。(京都山岳会隊・宮川清明隊員の手記)
白水さんは二十九歳、独身だった。
「みちくさ新聞」3号掲載
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9003/books21.htm
http://www.akiya-yutaka.com/kurebusuni.html
〔登攀倶楽部〕
私は今、登攀倶楽部の旧会報をスキャンしブログUPをしている。その会報「攀No.2」の "座談会"「クラブを語る」を読んだ。すごい会である。確かに自由であった。月に一度の会合はパートナー選びの場であり、合宿など目標を一つにした集団山行の話は一切なかった。だから、登攀倶楽部「京都」では新人の入会はお断り。教えるより自分の山行重視であった。ここに行き着くまでに紆余曲折があったことを今更ながら知る今日この頃・・・
http://www.kangojuken.com/touhanclub/yojiru2scan-35.pdf
〔西穂山荘のウイスキーを全部飲み干した愚かなお話し〕
1980年代初めの頃だったと思う。当時私は学生で山とスキーの店「らくざん」でアルバイトをしていた。その冬、「らくざん」の社長 中村重行氏(当時登攀倶楽部京都顧問)より「としぼう、西穂に行かへんか!」との話。社長直々の頼みを断るわけにはいかない。また、私には中学3年の春休み、西穂をめざしたものの独標で敗退した苦い経験もあった。意欲満々ではなかったが同意する。社長は私が運転できると思っていたようだ。道中運転を交代して欲しいとの言葉に運転免許がないことを伝えると詐欺にあったような表情をした。新穂高からケーブルで行く。そこから山稜の西穂山荘へ。分かっていたことだがケーブルの終点から西穂山荘までは結構ある。心構えのせいでもあるがラッセルがきつい。西穂山荘の入口付近でテントを張る。最新試作品の某社ゴアテックス製テントである。市場には出ていない。「ははーん」ここに来て私はこの山行の目的を理解した。社長はこのテントの居心地を試したかったのだ。実際、ゴアテックスのテントは快適であった。普通、冬のテントの中でコンロを使用するとテントの内側が濡れ、水分が滴り落ちる。ゴアテックステントはそれでも乾いている。コンロを使用しながらテントにもたれることができる画期的なものだ。ただ、修正すべき問題点もある。テントの底のシート(グランドシート)面がだぶついている。社長は某社にこのことを指摘するのだろう。さておき、テントを張って当日と二日目は風雪のため快適なテントで過ごした。社長は下戸。タバコは吸わない。但し、山のこと、店の経営のことなどで話は満開となる。ゴアテックスでも煙と臭いは排出しない。私はテントから頭を出して煙を吐きながら社長と話をする。持ってきたウイスキーが切れたので西穂山荘に「トリスのポケット瓶」を買いに行った。4回目であったろうか「品切れ」と言われた。今でも社長は何かと人に吹聴する。「西穂山荘のアルコールを飲み干した男」と。ゴアテックステントの快適性は分かった。風雪もおさまり西穂山頂へ・・・。独標に着く。そこから西穂稜線には急な下降がある。アンザイレンして稜線伝いに西穂へ進もうとする。3mほど下る。そこで社長の一言。「としぼう、やめとこうや・・・」、私「そやなぁ~ 今更西穂の頂上立っても男上がれへんし・・・」 数々の遠征を経験し隊長を努めた社長の言葉に従う。またもや西穂は遠かった。西穂の頂上は私にとって永遠未踏の「頂」である。※当時「らくざん」社長に対して登攀倶楽部員は「マスター」、私は登攀倶楽部入会当時、最年少であったことから「としぼう」と呼ばれていた。
〔暗闇の懸垂下降〕
暗闇の中、いつ着くとは予測できない懸垂下降を繰り返した経験がある。黒部奥鐘山西壁と明星山南壁である。無論どちらも想定外であった。普通懸垂下降の場合、逆Uの字にザイルをピンに通す。40mザイルで40m下降するには当然2本のザイルを結びつなぐ。その結び目が支点より右か左かを決定する。支点より下のザイルを引っ張れば支点に引っかかることなく回収できる。これが同じメーカーで同色のザイルであったらやっかいだ。下降した後、どちらのザイルを引っ張れば回収できるか分からない。従って基本的にザイルは色違いを使用する。ピンを支点に逆Uの字にするが、多くの場合、末端を結びOの字にする。そうすれば、結び目が懸垂器に引っかかりザイルが懸垂器をすり抜けることはない。安全である。ただ、長い壁の下降となるとそうは行かない。ザイル末端の結び目が壁やブッシュに引っかかる。また、迅速にするため上のザイルを回収すると同時に次の支点にザイルをセットする。そのためには末端を結ばないのである。つまり、どちらか一方のザイルの末端を認識できず懸垂器がザイルを通過すれば身体は自然落下する。ヘッドランプでは40m下のザイルの末端を見ることができない。そこにテラスや十分なスタンスがあるかも分からない。奥鐘、明星とも経験的に私が実質上のリーダーであった。暗闇の中、ハング帯を越え身体が宙に浮く。ザイルの末端が壁に接しているかどうかは確認できない。5m程度の視界の中、ザイルを信じて下降する。河原の流水音が大きくなる。ここが終着点か? 懸垂器を引っ張り歩き、確認する。テラスであった。まだ地面は遠い。続いて懸垂下降を繰り返す。そして着地。目線に川が見える。正真正銘ここは河原である。これ以上の下はない。と思ったとき生きた心地を取り戻せた。
〔ごく一部の青春〕
当時、登攀は私の青春すべてであった。他人に認めてもらうつもりで登ったわけでもない。しかし、この年になって思う。山ガールや高齢者登山。登った方に聞く。「横尾から涸沢に入るとき左側に見える垂直の壁を眺めた?」 「槍沢に入る前、右側に大きな壁を見なかった?」誰も見ていない。存在すら知らない。「なんで?」あんな大きな壁を見落とすのん!? 少し悔しい。自己満足でやってきたつもりであったが屏風岩に気がつかず涸沢に辿り着く登山者。黒部林道でも奥鐘山西壁は蔦のからまる単なる「いわかべ」であろう。今の山はNHKの「にっぽん百名山」がすべて。なんだろう。・・・ 皮肉と誤解されたら申し訳ない。時代を感ずる故の表現です。ご了承をお願い。
〔ボルダーリング〕
1980年代の初めであったと思う。「ボルダーリング」が流行った。六甲山系の北山公園や荒地山に通う。やれば結構面白い。握力、腕力ともにパッンパン。ワイワイガヤガヤ言いながら登り試しては落ちる。終わってみれば缶ジュースも空けられない。何回か行く。面白いが充実感がない。何より落ちることに慣れてしまった。「落ちたら死ぬ」これがクライミングの醍醐味であり、この緊張感が魅力である。だから私の前歯もブッシュを噛み削れたのだ。不意の事故はともかくとして、力尽きて壁から身体を離すことは考えられない。しかし、ボルダーのおかげで落ち癖がついてしまった。力尽きれば落ちるのもやむを得ず。こんなことでは本チャンは登れない。落ちて元々ではない。失敗しても生きて帰る。これが本チャンである。この切り替えがうまくできなくなってしまった。いくら小さなゲレンデ(壁)でも確保をするパートナーに「ほんな、頼むは・・・」と言って登りだすのが私の山であったはずだ。
〔登攀倶楽部-2〕
私は登攀倶楽部岐阜と京都の会報をこのブログにアップしている。当時私は京都会員であった。岐阜も基本的には同じ形態の組織と思っていた。ところが全然違っていた。京都は「新人お断り&女人禁制」の組織。岐阜はそうではない。女性の記録も岐阜の会報 ”攀” には掲載されている。京都にはなかったほのぼのとした報告である。どちらが良いとか悪いとかではない。同名の倶楽部でこの違いがあることが素晴らしい。根っこは同じでもそれぞれ進化は環境によって分かれる。系統樹の如く。かつて京都に於いて、登攀倶楽部存続の有無を議題にした会合があった。時代と共に精鋭的なクライマーが居なくなった。そのときである。或る創設メンバーの言葉「行く者(もん)がおらんようになったらなくなってもしょうがない。もともと登攀倶楽部は山岳会やないんやから解散はない。自然消滅でええんとちがうか?」
登る者がいなくなったら自然消滅。究極の「組織」論である。”おち” ではあるがそこで誰かが言った「ここに来たのは一体何者?」********** 自然消滅もあれば自然発生もある。
〔ダンロップテント〕
1971年の夏、中学三年の夏休み単独で ”燕~槍~北穂~奥穂~前穂~岳沢” に行った。いわゆる「表銀座から槍穂縦走」である。後半の槍穂縦走間で大庭(おおば)さんと言う九州の山岳会の方と知り合いになる。大庭さんはクライマーでたまたまゆっくりと一人縦走に来たらしい。まだ、岩登りを経験したことのない私にとって彼の話は新鮮であった。一見、遠くから見ると垂直の岩壁でも実際に登ってみれば数人がダンスを踊ることができるテラスがあること。冬の壁では着ぶくれして何をするにも大変なことなど。そんな彼が奥穂のテン場に着いたときザックから奇妙なテントを取り出し、あっと言う間の早業で張ってしまった。中に入る。冬期用のフード型の出入口がある。経験のない私はフードのたるみスペースを荷物置き場と勘違いした、が彼は何も言わない。紅茶用の湯を沸かしながら「実はこのテント試作品で借りてきたもの」とのこと。そばを行き交う登山者が珍しいのだろう。中を覗きに来る。当然である。当時のテントには支柱があり、固定する2点の細紐が必要であった。細紐の末端をペグや岩に結ぶ等の方法で固定する。どちらにしても地球につなぐ。ところがこのテントは自立式だ。画期的テント。今から察するに住友ゴム(今のダンロップ)テントの試作品であろう。翌日、大庭氏と同行する。少しルートを外れて岩登りの練習を手ほどきして頂く。3点確保である。重太郎新道を降りて岳沢ヒュッテに着く。ザックを置いて休憩。そこで岳沢を指さし「この沢詰めて稜線までどれくらいで登れる自信がある?」 全く私には想像できなかった。「6時間くらい?」と応える。大庭氏「3時間で登らなければダメ」 残念ながら未だに岳沢を詰めたことはない。ただ、このプロフェッショナルな言葉が印象的であった。以後、余談ではあるが岳沢ヒュッテで某社製の登山靴は潰れてしまった。靴底が剥がれてしまったのだ。ビムラムではない。その上層だ。左右である。私は岳沢ヒュッテから河童橋まで約6㌔の道のりを靴下のまま歩いた。ラケットやバットが折れても人は死なない。山靴が破損すれば致命的である。
※当時、私は登山用具のことは全く無知であった。山靴も商店街のスポーツ用品店で購入したものだ。
〔山靴〕
岳沢ヒュッテで山靴が潰れ、上高地の河童橋までの約6㎞を靴下で歩いたことは先のブログに記したとおりである。それでは老舗の山靴メーカーは安全なのか? 私はロッジ・青穂山荘・京都らくざん等の登山用具店で働いた。構造的に革製山靴の種類には2種類ある。靴の甲の部分が2枚になっており靴紐を絞めると2枚の革が閉まる2重革型、もう一つは甲の部分がAの字に割れており絞めると甲のAの字の巾が狭くなり全体にフィットしていくAの字革型である。どちらにしても靴紐を左右に引っかける金具がある「D環」と言う。当時、D環に靴紐を絡ます際、8の字にするクライマーもいたがそれを真似して大変な目に遭った。8の字に絡ませると靴紐は緩まないが紐がD環の角に擦れて切れる。話を戻す。2重革型は絞めると同時に上下の革の摩擦も強くなり絞まりにくくなる。冬期、靴が凍っている場合は靴を履くだけで一苦労だ。Aの字革型は前者に比べれば絞まり具合は良い。但しAの字の左右を均等に絞めなければ甲に対し均等に力がかからない。履くとき「左右の絞め癖」の付け様が重要だ。どちらにしてもD環を最大限絞めた場合も「まだ絞めることができる」あそびが必要だ。ところが、ヨーロッパの山靴老舗メーカーの軽登山靴にはその「あそび」がない。絞めると同時にD環が接触。これ以上絞めることができない。日本人の足は扁平足で甲高との推定か? 手入れを繰り返し靴油を塗ると更に革は伸びて足が靴の中で不安定になる。当時私は社長に進言してこの靴の入荷を中止した。大きめの山靴を勧めるとクレームはない。但し、本当にマッチした山靴を勧めるとクレームが後々ある。適当に大きめの靴を与えておけば文句はでないであろうとの思いか? これから山を始めようと思っている方々へ。靴の試し履きの際「ぴったりですよ」の言葉には要注意。「大きすぎます」と応える店員さんは信頼に価する。特に店内に在庫が無い場合、悪質な店員は無理して在庫のあるサイズを勧める。「注文しますので待ってください」と話す店員は大丈夫。夏の縦走では厚めと薄めの靴下を履き指を縮めず、つま先で蹴って指を伸ばしたままで靴の先端までもっていき、かかとと靴の隙間が人指し指1本半弱。これがベストだ。このとき大抵の場合、指先を少し折って縮めてしまう。これが後々の後悔となる。但し、履いて歩く内に靴底は沈み巾は広がるものだ。
〔山靴その2〕
私の知る限り「山靴」は興味深い。フランス・イタリア・ドイツ、そして日本製。それぞれの国民性を反映しているような気がする。フランス製は軽く機能重視。但し、革は薄めである。イタリア製、万能だが特徴がない。軽登山には適しているが重登山となると不安が残る。ドイツ製はとにかく重い。革・造りと共に良質であるが、これにアイゼン(クランポン)を装着すると鉄下駄の如くである。日本製? これには面白い逸話がある。私の師匠こと浜野氏がラドックⅡ峰遠征を前にして京都の山靴専門店Mに特注した。インナーブーツ式のW登山靴である。足形をとる。完成は○○日と聞いたのでその日に行く。店主のMさんがでてきた。完成した靴を試し履きする。右靴を履く。次は左、ところが左の靴がでてこない。M店主曰く「左は気にくわんかったので捨てしもた。来週もう一遍来いや!」とのこと。この話を聞き、私は大笑いした。師匠の浜野氏は大阪の八尾に住んでいた。京都へはいつでも気軽に行ける距離ではない。勝手なオッサン? されど、今思うにこのMオッサンは大した職人だ。今、こんな靴職人は日本に何人居るのだろう。
〔水/Water〕
最近、聞くところによると携帯食料は随分良くなったようだ。アルファ米も昔に比べて相当美味しくなったらしい。フリーズドライなどインスタント食品も技術の向上とともにかなり進歩したようである。残る問題は「水」即ち「water」だ。沢登りと違い、壁の登攀においては「水」を途中で補給することができない。殆どの場合、下山した私の水筒には水は残っていなかった。山小屋のない縦走も同じだろう。2L必要なら2L、3Lなら3Lの水をザックで背負うしかない。リットル=キログラムである。フリーズドライ食品は水を加えることによって元に戻る。その水がインスタントで再生可能なら画期的である。水素電池は使用後に水を排出するらしい。水素電池コンロができればコンロ使用と同時に水ができる。とは言え、100CCの水を生むために100キログラムの水素電池コンロを運ぶのでは意味がない。粉末水素(A)と粉末酸素(B)を混ぜてシェイクすればできる「魔法の水」の出現は期待できない。少なくとも我々が生きている間には。
〔幕岩 大町の宿〕
唐沢岳幕岩の取付点付近に「大町の宿」がある。「宿」とは言っても岩小屋だ。幕岩のルート開拓時に「大町山岳会」がベースに使ったのだろう。広さは10畳以上。何よりありがたいのはその中央に水が流れている。天然の水道付き岩小屋だ。水くみに行く必要はない。クライマーにとっては天国のような所だ。そう思いつつふと頭をよぎった。「岩の根元から湧き水が出ると言うことはその地盤が侵食されていると言うことか?」岩小屋を形作っている天井岩は数十トン以上だ。私は気休めに直径10センチほどの丸太を支えに挟んだ。意味のない行為である。幕岩、「大町の宿」は今でも健在か?知る人ががあれば教えて頂きたい。
〔チンネ〕
剣は不思議な山域だ。穂高とは違って特に冬は入山に時間を要する。夏は滝谷と違い開放感がある。長治郎雪渓を詰めて池ノ谷ガリーを下る。三の窓に辿り着く。池ノ谷ガリーと三の窓からの展望があまり違うせいか、タイムスリップに飛び込んだような気持ちになる。チンネを取りまくシュルンドを避けてルートを探す。中央チムニーと間違って左方ルンゼに取り付いた。次はAバンドBクラック?Aバンドがやけに広い。単なる緩傾斜帯だ。しかし疑わずBクラック。Bクラックもクラックとは言うものの広すぎる。そこを登ってはじめて間違いに気付く。確信して登った中央チムニーは左方ルンゼでありBクラックは中央チムニーであった。おかげで10ピッチ近いクライミングを楽しませてもらった。チンネの終了点には十字架がある。ガスにぼやけたそれはマッターホルンの頂上にでもたどり着いたかと思わせる幻想的な風景であった。
〔ニコニコホールド〕
クライミングに於いて最大の幸せは「ニコニコ」に逢ったときだ。ニコニコとはニコニコホールド、指の第一関節以上の鋭角ホールドである。これはありがたい。何でもできる気持ちになる。思わずニコニコ。嬉しいかな。長いピッチの一瞬の喜びである。人生に於いてニコニコホールド、無ければしょうがないが、あったら見逃すまいと思うのであります。
〔かくねざと〕
鹿島槍北壁の根元に「カクネザト」と言う地名がある。「カクネザト」=「隠れ里」」。昔、源氏の制圧を避けて平家の落ち武者が暮らした所らしい。ところが今、冬は雪崩の巣である。生活など到底考えられない。クライマーも足早に通過する。平安後期~鎌倉前期は比較的温暖でカクネザト周辺、いわゆる2300mの山間谷部でも生活できたらしい。夏、暑ければ「温暖化」 冬、寒ければ「異常気象」たかが温度の計測が始まって100年前後である。一喜一憂するのは如何なものか。地球的規模で見ると数千万年の周期でN極とS極は入れ替わっているらしい。
〔サツキマスとサクラマス〕
サクラマスはヤマメの降海型。サツキマスはアマゴの降海型。アメマスはイワナの降海型。その生息域については棲み分けがあるがここでは省略。さてこれら、ほとんどの個体は川で一生を終えるが、川の流れに逆らえなかった個体が海に落ち豊富な餌を得て超巨大化。「マス」となる。彼らはやがて元の川に戻って産卵する。面白いのは降海する個体は川の流れに逆らえず、海に落ちた「体力の無い個体」。いわゆる落第組。その劣等生が或日突然、数倍の大きさになってかつての優等生の前に立ちはだかる。何が功を奏するかわからない自然界。
〔黒部のトロッコ電車〕
秋はクライミングの最高のシーズン。11月には連休が2回ある。前半は奥鐘山西壁、後半は明星山南壁。真夏の奥鐘は暑さもさることながら山ダニの恐怖。喰らいついた山ダニを強引に剥がすと頭が残る。帰路の温泉でサルのノミ取りよろしく背中の山ダニ取りを二人仲良く交互に繰り返したとの話は盛夏の奥鐘経験者からよく聞いた。だから11月と決めていた。トロッコ電車の終着点、「欅平」から奥鐘西壁の取付点へは改札口を通らない。トロッコ電車を降りてそのまま線路伝いに行く。トンネルを抜けると黒部川に降りる急な鉄の階段。それを降りて川を遡行する。当時、壁を登ることしか頭になかった。今思うと素晴らしい景色であった。黒部川と紅葉。さらに尾根の上部には白い雪。何故あのとき、ここでしか見ることができない絶景をもっと楽しめなかったのか? 己の若さ故。了見の狭さを悔いる。精神的に「未熟」であった。あの頃の技術・体力と体型、そして今の感性が欲しい。
〔剣・八ツ峰とチンネ〕
以前、剣Ⅵ峰Dフェース久留米大ルートから池ノ谷ガリーを経由してチンネ左方ルンゼ~中央チムニー~aバンド・bクラックを攀ったことがある。左方ルンゼを中央チムニーと間違えた。たから中央チムニーをbクラックと間違えた。bクラックを越えて初めてルートの間違いに気づいたのでした。おかげで10ピッチ以上の登攀が楽しめた。ただ、あのとき下りた池ノ谷ガリーは陰湿で長く感じた。稜線から稜線のコルにたどり着くのに何故こんなに下りるのか?googleアースはすべてを説明してくれる。しかし、チンネって小さい壁やなぁ!
〔テレビの箱〕
私と師匠の浜野氏はⅥ峰Dフェースを攀り、八ツ峰を主稜線に向かって縦走していた。ガスで廻は暗く視界も悪い。そのとき、20インチ中型テレビほどの段ボール箱を背負子に担ぎ足早に下山する登山者とすれ違った。私はそのまますれ違ったが、後を歩いていた師匠が足を止め彼と話している。しばらくして師匠が私に追いつき話してくれた。「あの箱には折りたたんだ遺体が入ってるんやって・・・」私は驚いた。「死んだらあんな小さい箱に入れることができるんや!」今から思えば雪渓の中でミイラ化していたので折りたたんだのであろう。以後、山で窮地に追い込まれる都度、あの箱が私の脳裏に浮かぶ。「あんな小さな箱に入りたくない!」いつもそう思い窮地を乗り越えた。
by touhanclub
| 2013-01-02 02:50
| 仲村利彦の部屋