往年のクライマー(元登攀倶楽部の会員)によるブログです。
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北岳バットレス
北岳バットレス。高所の岩壁にしてはアプローチが短いです。北岳の御池小屋で小屋番をしていたこともあり、親しんだ壁です。特に第四尾根は数回攀りました。1970年代初期はマッチ箱のピークにボルト・ハーケンが6本くらい埋められ、シュリンゲも10本以上巻かれておりました。元々慎重派なので残置のシュリンゲは当てにしない方でしたが、流石にここではその必要がないと感じました。懸垂で降りたマッチ箱のコルには誰が置いたのか?公園で見るような大きな金網のゴミ箱があります。どうやって運んだんやろ。二人用テントなら3張りの広さです。
その三年後、マッチ箱が崩壊したと聞きました。犠牲者もでたとか。ほんまかいな! 現場見たさにDガリー奥壁や中央稜のアプローチとして攀りました。コルは影も形もありません。残っているのは鋭い岩のエッジのみ。唖然!
なんぼボルトやハーケン打っても、太いシュリンゲを巻き々にしても岩ごと崩壊したら意味ないんやね。
北岳バットレス <奥山 章>
BattressがButtressの誤植であることに気がつくまで、ちょっと時間がかかった。そのうえ辞書に並んだB列の文字群が、そのまま山岳用語辞典にかわってしまうほど、私の山恋いは重症に達していたらしい。
《Battress=戦う。Battress ship=戦艦》
バットレス中央稜の初登禁者松濤明氏は登歩渓流会々報(一九四八年)に次のように記している。
「中央稜は北岳頂上からCガリーへ垂下する短いが非常に急なリッヂで、コンベックスなカーブを描き、釣尾根から見ると剣道の面の様に見える」
その十年後、一九五八年一月、中央稜の積雪期を登った私の報告。
「池山釣尾根から正面に北岳バットレスを仰ぐとき、その広大な岩壁のまん中に、戦艦の艦首のよ
うに張り出した中央稜に心を動かされぬクライマーはあるまい…」
海抜三一九二・四メートルの頂稜へと一気に突き上げる中央稜を、戦艦の貫録に見たてれば、第一から第五までの岩稜は巡洋艦や駆逐艦といったところだ。軍艦マーチの演奏のうちに出動するバットレス艦隊に、ヤッホウ!をおくろう。.
パラパラと頁をめくり、《But》以後に目を移す。
《Butt=太い方の端、銃床》バットレスを構成する岩稜のプロフィルはなんとなく"銃床"に似ている。ここで艦隊はたちまち消え去り、幻想は黒い銃身を天空に向けて並んでいるガン・コレクションに変る。ドカン!という音は、Cガリーから出た雪崩の炸裂音だろう。
《Butte=孤峰》北岳は間ノ岳、農鳥岳とともに白峰三山と呼ばれているが、岩壁にめぐまれない南アルプスにおける唯一の岩場として、北岳は岩壁の孤峰だ。貴重な岩肌を自然の崩壊から守るために、五本の岩
稜が懸命にささえている。
《Butter-Cup〔植)ウマノアシガタ科、キンポウゲ》北岳周辺に咲くウマノアシガタ科の高山植物には有名なキタダケソウがある。「七月、本州中部(北岳)高山帯、岩礫地、高さ」十五~二十センチ、根葉は有柄、二回三出、裂片は更に細裂し、先は円い。葉面全体に粉白緑色、花茎に総苞なく、一二枝分れて直径二・五センチ.内外の白花を上向きに着ける.がく片は花弁状で先が凹み、基部に赤褐色の斑文があ。花弁なし・雄しべ雌しべ共に多数」正確に表現しようとするといっそうわからなくなるのが文字の欠点である。簡単にいえば・まん中が黄色で、花びらが白い、綺麗な花」だ。
《Butterfly=蝶。Alpine Butterfly=高山蝶》
北岳バトレスは三千メートルを抜く岩揚だから、この高さに住める高山蝶といえばタカネヒカゲくらいだろう。タカネヒカゲの発見、命名者は山岳画家で有名な中村清太郎氏。明治四十三年七月二十八日、薬師岳の山頂の岩の上で発見された。タカネヒカゲは高山蝶の中で最も高い所に住み海抜二千五百メートル以上を棲家する生粋のクラッグス・マンだ。色は岩に似た褐色で・きわめて敏捷である。中村清太郎氏は、これを捕えるのに人夫に懸賞をかけ、日当を上回る数円を投じたという。
岩揚でギリギリのところに追いつめられて、一本のハーケンを打ちあぐんでいるようなとき・タカネヒカゲが登攀者のまわりまわりを舞いはじめる。かろやかな蝶の翅への羨望を感じながらの焦燥感・・・そんな経験を、岩を登る者なら誰もがもっているに違いない。
《Buttress〔建)控え壁、支持物》
ここでようやくバットレスに到達する。長いアプローチであった。最近は野呂川林道の開発でアプローチも短くなり、東京から夜行日帰りで北岳バットレスの登攀が可能となったが・北岳は・やはり営々と前衛の山を越えた、野呂川の奥深く、はるかにそびえていた頃が懐かしい。
私がはじめて山に関心を持ったのは「高田光政氏」のアイガー北壁の新聞記事。「山って過酷やなあ!」そう思いました。それから10数年ほど後、山具店にバイトで勤めていたとき「タカダ貿易の社長=光政氏」が山靴ローバーの営業で店に来られました。
私は直立不動で近くに行けません。固まりました。
岩登りの流れ <斎藤 一男>
日本の山岳地帯には、不幸にして岩だけの山もなければ氷河もない。したがって、本場のヨーロッパ・アルプスの高山岳地方において岩と雪と氷の洗礼をうけた外人によって移入された近代登山(アル三ズム)は、そのまますぐに消化されはしなかった。当時のヨーロッパではすでに登頂時代は終り、あらゆる時期に、あらゆる方向からの登山に進んでいるというのに日本はようやく探検期に入る状態だったからである。
日本の登頂時代はだいたい十年で終局を迎え、幽谷と森林への第二期に向った。この前後に起った学生層の新勢力は、いたずらに先人の後塵を拝し、あるいはまた満ち溢れる青年の若さを山の彷徨に過すのを潔しとしなかった。彼らは海外の知識を吸収し、アルピニズムを真摯に研究しはじめた。ちょうど折よく、一九二一年、一通の海外電報は日本の登山界を電撃した。槙有恒氏によるアイガー東山稜の初登撃である。日本のアルピニズムは、この日を転機として急速に膨張をしはじめた。しかし冬季登山への熱意は岩登りに数段優り、一九二四年の春には穂高連峰の主なるピークは
登頂を許した。岩登りは一九二二年夏、早稲田、学習院パーティによる北鎌尾根の登攀を記念として新しい方向へ進んだ。岩登りの多くは、槍・穂高・剣を中心にして行なわれたが、その内容はただ普通の山登りに多少の岩場を交えた程度で、腕力に頼って本能的に登るといった方法をとった。
一九二四年、阪神登山界の人たちはRCCを結成し、岩登りを目的とする研究をはじめた。洋書の翻訳を手がかりに、最初は岩登りの安全性を重視するあまり、確保法の習熟に力を入れた。たまたまゲレンデの芦屋ロックガーデンが風化した花嵩岩の短かい岩場であったことから、極度な摩擦登りと分割登禁が流行した。やがて若手メンバーが日本アルプスの岩場へ進出し、甲南、大阪帝大、神戸商大などの学生グループの活躍によって、種々の構成をもつ岩質の山岳に触れ、岩登り技術は著しくダイナミックなものへと発展し、RCCが日本の岩登りに播いた種は、RCCの解散後
も各地に飛んで、現在の隆盛を招いている。
日本の岩登りの歴史において最も精彩を放った一時期は、だいたい昭和五~八年ごろに集中し、主要なルートを開拓した。岩場の少ないことと、岩登り技術を系統的に練習しなかったので、その後の学生登山界の主流は、冬季登山、海外登山へと向ってしまい、岩登りは一般社会人を新しい主人公として迎えた。彼らは従来の経験を基礎として、真正な岩の技術を発達させ、その成果は次第にバリレーション・ルートに試みられた。ハーケン・カラビナ.ハンマーは積極的に使用され、フェース・クライミングに人気が集った。
戦後は人工登攀と積雪期登攀全盛を招き、アブミ・埋込ボルトによってオーバーハングは突破され、リスのない平滑な岩場にもルートは開かれた。執拗なクライマーにとっては、不可能な岩壁はこの世に存在しないのである。一つの初登攀がなされると、もうその冬には積雪期の初登攀が争われた。一つのルートでは時間的にも物足りなくなって、二つも三つもルートを結んでスピーディーな岩登りが流行している。新ルートの続出は、旧来の名称を細分し、おびただしい登攀者が岩場にひしめいている。
より新しく、より困難なものを求めるアルピニズムの前から、日本の山が次第にその姿を消してゆく一方、ヒマラヤの未踏の高峰もまた、各国の人々によってだんだんその高度を低下させて八〇〇〇メートル級の時代はとうに過ぎ七〇〇〇メートル級のシルバー世代も魅力が薄れ、すでにヒマラヤにも岩登りの時代が訪れつつあるのは見逃せない。
このような動きとはまた別に、RCCの流れを汲む第Ⅱ次RCCの人たちは、あくまでも岩登りの神髄を追及するがためヨーロッパ・アルプスの困難な岩壁にその眼を向け、すでにアイガー北壁に対する執拗な挑戦をはじめとして、三大北壁を中心とするバリエーション・ルートへ進出しつつある。
岩と雪と氷のあるところ、アルピニズムは常に前進する。
屏風岩一ルンゼ
同じ山岳会(登攀倶楽部)のメンバー=Oさんと故Kさんに横尾の避難小屋で逢いました。同じ山岳会ですが偶然です。彼らは一ルンゼ。私たちは中央壁ダイレクト。夜中の2時頃、彼らは小屋を出て行きました。雪崩の危険を避けるためルンゼ狙いは早いのです。暗闇も明けぬ5時過ぎ=我々の出発直前、彼らが帰ってきました。あまりの早さに私:「どや、あかんかったやろ!」 Oさん:「楽勝・楽勝・・・・・や」 私:「そっか。よかった。」と言いながら「なんで一ルンゼがこんなに早く」ちょっと嫉妬。
我々は? 散々。登攀二日目の6P目、アイゼンをつけたアブミでの足の入れ替え。大きなクラックに突っ込まれていたコの字型の赤ハーケンが抜けて15mの空中遊泳。夏のときは大丈夫やったんやけど。
T2テラスで吹雪の中、情けなくザイルを回収している写真があったはずやけど・・・どこに行ったんやろう。
屏風
あのころは攀るだけのでした。ルート図さえあればどうでもよかったのです。
しかし、吉尾氏は早くも次の時代の懸念と予感。半世紀以上昔に。RCCⅡの初版本を入手以来、「日本の岩登りの歴史」にハマりました。興味のある方はお付き合いください。OCR変換なのでチェックはしておりますが誤植がありましたら堪忍&ご免でお許しを。
屏風岩 <吉尾 弘>
涸沢の行き帰りに見あげる屏風の偉容は、今ではすでに先駆者の昔から私たちの時代まで、クライマーの胸に変らないある種のおののきを感じさせる何かをもっている。かつては選ばれたるもののみに許されていた屏風の北壁、第一ルンゼ、第ニルンゼ、慶応稜、みな"新たな垂直の時代"の始まるまでは、岩登りを志ざす若者たちの最高の目標の一つだった。伊藤洋平氏による北壁の積雪期初登攀、その偉業がいかに後世のクライマー勇気づけたか、小川登喜男氏の第一ルンゼの登攀が、次の世代をいかに敬服させたか、みな屏風岩がもつそのなにものかによるためだった。
目本が敗戦を境として、絶対主義的天皇制国家から、まがりなりにも民主主義国に変貌しようとしていた時代、屏風中央カンテを初登肇した石岡繁雄先生と中学生たちの記録を知って、生活苦に追われて山どころではなかった登山愛好者たちはいかに元気づけられたろうか・・・。
屏風岩、ここには人間の可能性の限界、登攀能力の限界があるものと信じられていた。ゆえにアルピニズムに占めるその位置は大きく、岩登りに楽しみだけを求めるムード登山家の一群には、この壁は恐れられこそすれ決して好かれてはいなかった。
一九五〇年時代の後半に到ると、積雪期登攀が一般化されて、穂高の奥又、明神、あるいは一ノ倉沢にと、今まで考えられなかったような実践が傾注された。その波が当然屏風岩にも及び、北壁の第二登、中央カンテの積雪期初登攀、またこの中央カンテをアプローチとする奥又白のアタックというような連続登攀が、はやくも松本竜雄氏等によって実践されている。
一九六〇年代には、屏風中央壁、東壁、東稜、さらに東壁鵬翔ルート、緑ルート等、陸続と垂直のルートが開拓ざれた。まさに驚嘆すべき本邦クライミングの前進のいぶきが起ってきた。
だがある人は言った。屏風の東壁あたりに同じようなルートが何本も開かれるのはおかしいのではないか、と。またある人は、フリークライミングで行きづまったとき初めて人工ピッチが生まれるべきではないのか、と。さらにある人は、屏風岩、あれは崖登りでしかないのではないか、と。
しかし現実はどうなのか。アルピニズムの歴史から屏風の記録が抹殺できるのか。できるわけがない。本邦の数少ない岩の修練揚としても、北尾根の末端にあたるその位置から考えても・・・。
ある種の現代クライマーは、屏風岩こそ奥又に到るアプローチとして、さらに滝谷にはいるアプローチとして、己を鍛える道揚の一つとしているのだ。
より困難を追求する行為=実践クライミング、これこそアルピニズムを前進させる唯一の母胎に他ならない。やがていつの日にか屏風岩は、ヒマラヤにおける岩壁登高にそなえる科学的・力学的なトレーニングの場として、また機械クライミングの実験揚として、アルピニズムの歴史に・より大きな貢献をする日が必ずくるであろう。
滝谷
寝転んで天空を仰いでも視野の一部に茶色の岩肌が眼球に映ります。剣や北岳の開放感に比べて暗い。「岩登りの殿堂=滝谷」 第一尾根を登りに行ったときP2フランケの美しさに圧倒されました。「こっち行きたい」と思いましたが、またの機会にと予定どおり一尾根に取付きました。結局、またの機会は訪れませんでした。滝谷の開拓時に生きたクライマーはしあわせだと思います。あっちワクワク。こっちもワクワク。五万分の一地図、毛虫探し以前の時代です。
滝 谷 <望月 亮>
稜線に立つと、飛騨の風がひょうひょうと吹きあげていた。頂は濃い霧の中に隠されていた。薄着の肌からみるみる体温が掠められていった。唇は色を喪い、歯が鳴った。陽の光がしきりと懐かしく思えた。振りかえる遙か下に、澗沢の天幕群が鮮かに見えた。雲は頂稜の上のみをおおい、信州側の下では相変らず強い陽射が照りつけている。そこにはむせかえる草いきれが立ちこめ、天幕は蒸風呂のように熱せられているに違いない。だが、その熱気もここまでは届かなかった。
風はさらに強く吹いた。だが風も、頂稜にまつわる雲を吹き払うことはできなかった。それどころか雲はいっそうその厚みを増し、霧のヴェールは私達を惑わした。岩壁はとほうもなく大きく見え、山は距離と空間を無限に拡大する。どこかで、低く鈍い落石の音が谷を転り落ちていった。
「とにかく降りてみよう・・・」
身体の芯にしみとおる寒さに追われて、底の見えない谷を飛騨側に下りはじめる。狭く急な、そして脆弱な岩溝を、奈落に足を踏み入れるように、恐る恐るずり落ちる。小さく鋭い羽音を残して落石が耳をかすめていったその先に、銀の糸のように蒲田川の流れがちらと光った。
私達は岩壁の下に立つ。誰が積んだとも知れぬケルンが、付近にある石のすべてを使って築かれている。そのほかにはこのあたりに石はない。
《誰かが登ろうとしたんだな・・・》
私は未登の岩壁を仰ぐ。人に登られたことのない壁はむしろひそやかに立っている。私達はその壁を登り始める。《未登の岩壁》には充実がある。たとえそれが不安と焦燥と背中合わせの充実にしろ、そこには隙間のない私がいる。そして私達は緊張と小さな希望にささえられている。
"ここはまだ誰も登った者がない・・・“
このわずかなことが私達を喜ばせ、小さな誇りを持たせる。一つ一つの手懸りや足場を踏みながら、岩壁に手と足の跡を染みこませようとしている私。雨にも雪にも洗い流されることのない足跡--- その一つ一つに思いをこめて攀じる。私はそれを忘れることのないように覚えこもうとする。この壁は私達のものになろうとしている。そして私を勇気づける。
ようやくにして霧の中から仲間の顔がでる。お互いに笑顔をかわそうともしないで、また霧の中での孤独な時間の繰返しがつづく。一歩一歩標高を掠めて成功がだんだん手近い所に降りてくる。
突然、私達をささえていたものが崩れ落ちる。希望が喪われると、不安と蕉燥は平衡を破って一方的に膨れあがる。私は叫びだしそうになるのをこらえる。
下降が開始される。一本のハーケンと一本の捨縄を惜しんで、私達は非常な危険を冒す。ハーケンと捨縄が惜しいのではない。そうすることが当然のように、ふだんの習慣・・・貧しさ・・・がそうさせている。ようやく岩壁の下に降り立って私達は息をつく。未登の壁はむしろひそやかに聳えている。潰れた小さなヒロイズム。私達はザイルを巻き、濡れ猫のように道に向って歩きはじめる。
風の中に霧はあいかわらずひょうひょうと吹き上げ、頂稜の雲はさらに重く厚みをましていった。